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'''比企 能員'''(ひき よしかず、生年不詳 - [[建仁]]3年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]([[1203年]][[10月8日]]))は[[平安時代]]末期、[[鎌倉時代]]初期の[[武将]]。[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]。[[阿波国]]出身といわれる(『[[愚管抄]]』)。[[藤原秀郷]]の流れを汲む[[比企掃部允]]の一族。[[源頼朝]]の乳母である[[比企尼]]の甥で、のちに養子となる。藤四郎と称す。
 
== 生涯 ==
[[寿永]]元年([[1182年]])8月12日、[[鎌倉]]比企ヶ谷の能員の屋敷にて、[[北条政子]]が頼朝の嫡男・万寿(のちの[[源頼家]])を出産する。
 
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[[正治]]元年([[1199年]])1月に頼朝が死去したのち、[[十三人の合議制]]の1人に加えられ、[[梶原景時]]排斥にも荷担([[梶原景時の変]])。
 
=== 比企の乱 ===
[[建仁]]3年([[1203年]])8月に入ると頼家が重病に陥り、27日[[北条時政]]は一幡と頼家の弟・[[源実朝|実朝]]に頼家遺領分与を決定し、関東二十八国地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西三十八国地頭職を実朝に相続する事になった。これに不満を持った能員は、頼家に実朝擁立を計る時政の謀反を訴え、頼家は北条時政追討を能員に命じる。しかし、この密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に告げ、先手を打った時政は[[大江広元]]の支持を取り付けると、9月2日、仏事の相談があるとして能員を時政の自宅である名越邸に呼び出す。密議が漏れている事を知らない能員は、さかんに引き止めて武装するように訴える一族に「武装したりすればかえってあやしまれる」と振り切り、平服のまま時政の屋敷に向かう。門を通って屋敷に入ったところを、武装して待ちかまえていた[[天野遠景]]、[[仁田忠常]]ら時政の手勢に両腕を取り押さえられ、引き倒されたところを刺し殺された。
 
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比企能員の屋敷跡に建てられた[[鎌倉市]]の[[妙本寺]]に、比企一族の墓がある。
 
== 北条氏の陰謀説 ==
『吾妻鏡』は比企一族を滅ぼした[[北条氏]]による後年の編纂書である。当時の貴族の日記によると、頼家が存命しているにもかかわらず、9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が7日早朝に到着しており、実朝を征夷大将軍に任命するよう要請している。鎌倉からの日数を考えると、使者が発った時点で頼家や能員の殺害が決定していたとも考えられる。吾妻鏡の記録では、頼家近臣として所領を没収され、遠流とされた[[信濃国]]の御家人[[中野能成]]は、比企氏滅亡の2日後の日付で、時政によって所領を安堵されている書状が残されている。この能成は時政の子・[[北条時房]]と深い関わりがあった。愚管抄や都の貴族の日記、残された文書と吾妻鏡との相違、また、北条氏征伐を企てたという能員が平服で敵地のはずの北条屋敷を訪れている不自然さなどから、比企氏の反乱自体が北条氏のでっちあげとする説もある。(参考文献:『日本の歴史 7 鎌倉幕府』[[石井進 (歴史学者)|石井進]] 中央公論社)
 
== 関連項目 ==
*[[比企氏]]
*[[比企能員の変]]
 
;映像
*『修禅寺物語』(1955年、[[松竹大船]]、監督:[[中村登]]、演:[[柳永二郎]])
*『富士に立つ若武者』(1961年、[[東映]]、監督:[[沢島忠]]、演:[[小田部通麿]])
*『[[草燃える]]』([[NHK大河ドラマ]])演:[[佐藤慶]]
== ;比企能員を題材にした演劇 ==
*演劇:「[[滅びざるもの]]」(企画 比企総合文化研究センター 代表 高島敏明)
 
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== 比企能員を題材にした演劇 ==
演劇:「[[滅びざるもの]]」(企画 比企総合文化研究センター 代表 高島敏明)
 
[[category:比企氏|よしかす]]
[[category:鎌倉時代の武士|ひき よしかす鎌倉時代の武士]]
[[category:阿波国の人物|ひき よしかす]]
[[Category:1203年没|ひき よしかす]]
 
[[en:Hiki Yoshikazu]]