「オットー・フォン・コツェブー」の版間の差分

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[[アウグスト・フォン・コツェブー]]の次男として、当時[[ロシア帝国]]領、現在は[[エストニア]]領である[[タリン]](当時はレルと呼ばれた)で生まれる。[[サンクトペテルブルグ]]の士官学校を出た後、[[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]]の航海に同行する。[[ルミヤンツェフ]]の伯爵の座を犠牲にして、リューリクという[[ブリッグ]]での遠征の司令官となった。その船には[[ヨハン・フリードリヒ・フォン・エッショルツ]]や[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー]]がいた。[[1815年]][[7月30日]]に、[[北西航路|北極海の航路]]を見つけ、[[オセアニア]]の知られざる部分を調査するために出発した。
 
[[ホーン岬]]を経由してロマンツォフ島([[ティケイ環礁]])、リューリク島([[アルトゥア環礁]])、およびクルゼンシュテルン島([[ティケハウ環礁]])を発見したのち[[カムチャカ半島]]に向かって[[北アメリカ大陸]]の西海岸を北上し、[[コツェブー入江]]と[[クルゼンシュテルン岬]]を発見した。[[アジア]]の海岸を経由して南方に戻り、サンドイッチ諸島(※[[ハワイ諸島]]のこと)に三週間滞在し、[[1817年]][[1月1日]]にノイヤール島(直訳すると「新年島」、[[メジット島]]のこと)を発見した。[[大西洋]]を越え、[[1818年]][[8月3日]]に[[ネヴァ川]]に帰還した。
 
[[1823年]]にふたたび航海に出た。軍事目的の航海であったが、[[地理学]]者や[[民族誌学]]者も多数乗っていた。その遠征では、[[ラタック諸島]]と[[ソシエテ諸島]]を訪れ、[[1824年]]に[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー|ペトロパブロフスク]]に到達した。[[サモア諸島]]を訪れ、[[マリアナ諸島]]・[[フィリピン]]・[[ニューカレドニア]]・[[ハワイ]]を経て[[1826年]][[7月10日]]に[[クロンシュタット]]に戻った。