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呂布が滅ぼされると、袁術は曹操らの攻撃を受け仲国は滅亡、部下の[[雷薄]]、[[陳蘭]]を頼っての亡命を画策するが受け入れられず、[[199年]](建安4年)[[6月 (旧暦)|6月]]、袁紹の元へ逃亡途中に病死した。『[[呉書]]』の記載によれば最後に[[蜂蜜]]入りの飲物を所望したが、蜂蜜が無く、「袁術ともあろうものがこんなざまになったか」と怒鳴り、一[[斗]](当時は約1.98[[リットル]])余り[[吐血]]して死んだと伝えられる。
 
袁術の妻子は、元の部下の[[廬江]]太守[[劉勲]]に身を寄せ、孫策が劉勲を破った際に孫策に保護された。袁術の娘はその後[[孫権]]の側室となり、息子の[[袁燿]]も[[呉 (三国)|呉]]に仕官している。しかし娘(袁夫人)には男子は生まれなかった(女子については不明)。また他の夫人の産んだ子を何人か彼女に養育させたが、いずれも夭逝している。実質的な正室である歩夫人が死去すると、皇后に立てようとする動きがあったが、袁夫人は辞退した。のち、潘夫人([[孫亮]]の母)の讒言により、[[孫権]]に殺害された。
 
『[[三国志演義]]』では「[[伝国璽|伝国の玉璽]]」を得た事が皇帝僭称の直接的な動機になったとしている。また、第二十一回での袁術の死の描写では、雷薄・陳蘭らに略奪を受けついに糧食尽き、最後は蜜水を持ってくるよう料理人に命じたところ「ただ血水があるだけです。蜜水などどこで得られましょう。」と言われ、絶望して血を吐いて死んだとなっている。ちなみに横山光輝の漫画『[[三国志 (横山光輝)|三国志]]』ではさらに脚色が加えられ、ただ一人生き残った甥の[[袁胤]]と共に飢えの中歩き続け、とある農家で水を求めると、農民は水が入った瓶を倒して「さっきまで水はあったがね。今なくなっちまった。血ならまだ少しは体に残っているがね。」と答えるという印象的なシーンとなっている。