「極付幡随長兵衛」の版間の差分

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長兵衛は武家出という設定で、演じ方にも普通の侠客として演じてはならず'''、「行儀作法なども、他の侠客とは変えなければならず、天保時の侠客や唐犬権兵衛などでは、同じ親分でも親指を人差し指の腹につけ、軽く手を握った形で、膝の傍へその手をつくように挨拶しますが、長兵衛は水野の邸で手をついてお辞儀をする時、キチンと畳に掌をつけてお辞儀をしなければなりません。そんなことで長兵衛の風格が舞台に浮きあがって来るものなのです。」(七代目松本幸四郎)'''という芸談が残されている。
 
序幕の村山座の場では歌舞伎では珍しく劇中劇の形をとっており、明治の新作ではあるが、初期[[浄瑠璃]]や[[荒事]]に多大な影響を与えた[[金平浄瑠璃]]が唯一現行歌舞伎の演目として残っている場面である。また客席から長兵衛が現れるなど娯楽性に富んだ一幕である。
 
初演時、殺害される長兵衛のうめき声が真に迫っていて好評であったが、これは團十郎が、[[1868年]](明治元年)に養父河原崎権之助が強盗に殺害された時、養父の瀕死の声を聞いた経験によるものである。また、團十郎は殺害前の立ち回りを竹本の浄瑠璃を廃して柔術をありのままに演じる写実的な演出に変え現代にも受け継がれている。