「本質」の版間の差分

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アリストテレス的枠組みに立つ限り両者は区別されず訳語の違いにすぎなかったが、中世盛期スコラ学、具体的には[[トマス・アクィナス]]以降、実体 substantia と本質 essentia は区別されるようになった。ただし、このときでも[[近代哲学]]とは異なり、本質こそが実在であるという[[観念論]]的な枠組みは維持された。存在は、本質として概念的に存在している実体と、本質に現実存在( existentia )がプラスされた、現実的に存在する実体とに区分されたのである。
 
なお、概念が本質存在する([[概念]]として存在する)ということは、単に文法的・形式的な理由で名目的に表現可能であるというだけではなく、論理的[[矛盾]]なく想定可能だということを指す。言語の不備から、曖昧な、あるいは矛盾を孕む概念が観念されることはありうる。しかし、そうした名目的概念は、その名辞に対応する実体を持たないと考えられた。しかし、このことはかならずしもその概念に対応するものが現実存在するということを保障しない。概念から最高存在の現存在を証明する実体論的証明を退けた者には[[イマヌエル・カント|カント]]がいる([[純粋理性批判]])。
 
このことは可能や不可能など[[様相]]を問題にする場面でとくに問題となり、また現代では[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]や[[実存主義]]によって、[[存在]]するということがものの[[本質]]や属性に含まれないという点から着目された。たしかに[[ルネ・デカルト|デカルト]]などにとっては、たとえば神はその完全性のうちに存在を含むものであった。しかし、存在するものとしてしかその本質が考えられない([[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]])、というだけでは、やはりそのものは現実存在するとは限らないとの批判がたとえば[[イマヌエル・カント|カント]]などからなされている。すなわち、[[述語]]として考えたときに「存在する」という述語は、他の述語にはないやや特異な位置を占める。
 
{{see also|神の存在論証}}