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== 北条氏の陰謀説 ==
『吾妻鏡』は比企一族を滅ぼした[[北条氏]]による後年の編纂書である。当時の貴族の日記によると、頼家が存命しているにもかかわらず、9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が7日早朝に到着しており、実朝を征夷大将軍に任命するよう要請している。鎌倉からの日数を考えると、使者が発った時点で頼家や能員の殺害が決定していたとも考えられる。吾妻鏡の記録では、頼家近臣として所領を没収され、遠流とされた[[信濃国]]の御家人[[中野能成]]は、比企氏滅亡の2日後の日付で、時政によって所領を安堵されている書状が残されている。この能成は時政の子・[[北条時房]]と深い関わりがあった。愚管抄や都の貴族の日記、残された文書と吾妻鏡との相違、また『[[小代文書]]』という史料で能員が単身・平服で名越邸を訪れた様子が書かれており、北条氏征伐を企てたという能員が平服・単身で敵地のはずの無防備に時政の邸を訪れている不自然さなどから、歴史学者からは比企氏の反乱自体が北条氏のでっちあげであろうとの見方がされている<ref>[[石井進 (歴史学者)|石井進]] 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫、[[本郷和人]]『新・中世王権論』新人物往来社など</ref>。
 
== 関連項目 ==