「アーサー・ラーセン」の版間の差分

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'''アーサー・ラーセン'''('''Arthur Larsen''', [[1925年]][[4月17日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]][[ヘイワード (カリフォルニア州)|ヘイワード]]出身の男子[[テニス]]選手。[[1950年]]の[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]男子シングルス優勝者で、[[1954年]]の[[全仏オープン|全仏選手権]]準優勝もある。左利きの選手で、[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]後の全米選手権男子シングルスで初の左利き優勝者になった。ラーセンのテニスは、ボールの繊細なタッチに大きな特徴があった。彼はテニスコート周囲にあるものを“軽い足ポンポンと音を立てて歩く触る”(英語:''tap'')癖があったことから、“Tappy”(タピー)というニックネームで呼ばれた。フルネームは ''Arthur David Larsen'' (アーサー・デビッド・ラーセン)という。「アート・ラーセン」('''Art Larsen''')の名前で文献に記載されることも多い。
 
アート・ラーセンは[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]中、[[アメリカ陸軍]]の兵士として[[ヨーロッパ]]の戦場で働いた。陸軍を退役してからテニスの競技生活に入ったため、彼のデビュー年齢は23歳と遅く、[[1948年]]から[[1948年全米オープン (テニス)選手権|全米選手権]]に出場し始める。[[1949年全米テニス選手権|1949年]]の同大会で、ラーセンは[[パンチョ・ゴンザレス]]との準々決勝に勝ち上がった。[[1950年]]から海外の[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]にも遠征を開始し、[[1950年全仏テニス選手権|全仏選手権]]と[[1950年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の2大会連続でベスト8に入る。[[1950年]]の[[1950年全米オープン (テニス)選手権|全米選手権]]で、ラーセンは準々決勝で[[トム・ブラウン]]、準決勝で[[ディック・サビット]]を破って勝ち進み、初進出の決勝で[[ハーバート・フラム]]と対戦した。ラーセンは当時22歳のフラムに 6-3, 4-6, 5-7, 6-4, 6-3 のフルセットで競り勝ち、こうして「第2次世界大戦後の全米男子シングルスで、最初の左利き優勝者」になった。それ以前の時代にさかのぼると、[[1930年全米テニス選手権|1930年]]に優勝した[[ジョン・ドエグ]]以来20年ぶりの左利き優勝者となる。
 
翌[[1951年]]、ラーセンはキャリアで唯一の[[1951年全豪オープンテニス選手権|全豪選手権]]に出場し、[[ケン・マグレガー]]との準決勝まで勝ち進んだ。[[1951年]]と[[1952年]]の2年間男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手を務める。大会前年優勝者として臨んだ[[1951年]]の全米テニス選手権|1951年全米選手権]]で、ラーセンは準決勝で[[フランク・セッジマン]]に 1-6, 2-6, 0-6 のスコアで惨敗した。当時[[オーストラリア]]男子テニス界の第一人者であったセッジマンから、前年王者はわずか3ゲームしか奪えなかったのである。[[1952年]]のデビスカップで、ラーセンは対[[日本]]戦に起用され、シングルス戦で[[隈丸次郎]]と[[宮城淳]]を破ったが、これを最後にデ杯米国代表選手としての起用もなくなってしまう。
 
[[1954年]]の[[1954年全仏テニス選手権|全仏選手権]]で、ラーセンは2度目の4大大会シングルス決勝進出を決めた。初進出の全仏決勝では、同じアメリカの後輩選手[[トニー・トラバート]]に 4-6, 5-7, 1-6 のストレートで敗れて準優勝に終わる。彼は[[1956年]]までテニス・トーナメントに出場したが、[[1957年]]に自動車事故で頭部に重傷を負い、ここで現役引退を余儀なくされた。[[1969年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
 
「タピー」というニックネームの由来となったラーセンの習癖は、第2次世界大戦中のヨーロッパ戦闘体験から自然に身についたものであり、それが周囲の友人たちには奇異に感じられるこもあったという。テニスの試合中には、コートのラインやネット、審判台の椅子まで“ポンポンと音を立てて触る”癖があり、肩の上に止まった鳥に語りかけるような独り言を言うこともあった。選手仲間として一緒に旅行する機会の多かった同時代のライバル選手だった[[ヤロスラフ・ドロブニー]]は自伝『亡命したチャンピオン』(''Champion in Exile'')の中で、「アート・ラーセンはなぜ[[リオデジャネイロ|リオ]]が嫌いなのか」(Why Art Larsen Dislikes Rio)という題名の第14章を割き、旅行仲間の観点から彼の人柄を興味深く語っている。非常に愛想当時「プロテニスツアー」を運営して人だっ[[ジャック・クレーマー]]は自著『ゲーム-テニスにおけるわ、第2次世界大戦中40年』(''The Game: My 40 Years in Tennis'')ヨー中で、ドッパ戦闘体験ブニーとは異なる観点から、迷信深い習慣がいろいろ身につき、それが周囲友人たちに習癖奇異に感じられ「見こともあには面白かったが、プロテニスツアー向きではなかった」述べて
== 関連項目 ==
* [[テニス]]
== 外部リンク ==
* [http://www.tennisfame.com/famer.aspx?pgID=867&hof_id=187 国際テニス殿堂(英語)]
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* マーティン・ヘッジズ著『コンサイス・テニス辞書』(英語、1978年刊、ISBN 0831717653、メイフラワー・ブックス)
* ヤロスラフ・ドロブニー著『亡命したチャンピオン』(英語、1957年刊、ホッダー・アンド・スタウトン社)
* ジャック・クレーマー著『ゲーム-テニスにおけるわが40年』(''The Game: My 40 Years in Tennis'') (英語、1979年刊、ISBN 0399123369、G・P・プットナム社) 本書からは92ページを参照した。
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