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'''アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ'''('''Henry van de Velde''', [[1863年]][[4月3日]] - [[1957年]][[10月15日]])は、19世紀末から20世紀始めに活躍した[[ベルギー]]の建築家。[[アール・ヌーヴォー]]からモダンデザインへの展開を促した人物。ヴァン・ド・ヴェルドとも表記される。性科学書『[[完全なる結婚]]』で知られるのは [[テオドール・ファン・デ・フェルデ|Theodoor Hendrik van de Velde]](1873- 1937年)とは無関係
 
== 略歴 ==
[[ベルギー]]の[[アントウェルペン|アントワープ]]生れ。父は[[パリ・コミューン]]に参加した革命家であり、死刑判決を受け、ベルギーに亡命していた。ヴァン・デ・ヴェルデは画家を目指してパリに渡り、[[印象派]]の絵画から影響を受けた。ベルギーに帰国し、1887年に友人らとアール・アンデパンダン(独立芸術)というサークルを結成した(1884年にパリで[[アンデパンダン展|独立芸術家協会]]が創立されていた)
 
1894年頃から住宅設計を始め、1895年パリで[[サミュエル・ビング]]のギャラリー Maison de l'Art Nouveau のインテリアを担当した。その後[[ベルリン]]に渡り、[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大国|ヴァイマルの大公]]に招かれ、1902年[[ヴァイマル(ワイマール)]]に工芸ゼミナールを設立、1906年、工芸学校に発展し、校舎(1911年)の設計も行った。また、[[ドイツ工作連盟]]に参加し、中心メンバーとして活躍したが、第1回ドイツ工作連盟ケルン展(1914年)をきっかけに製品の規格化を推進する[[ヘルマン・ムテジウス]]に反発し、作家の芸術性・個性を主張して論争を行った('''規格化論争''')。
 
[[第一次世界大戦]]のため、工芸学校の後継者を[[ヴァルター・グロピウス]](1883- 1969年)に託し、ドイツを去った(1915年)。工芸学校は後の[[バウハウス]]の元になった
 
[[スイス]]では[[ロマン・ロラン]]と交友したり、ミューラー家の依頼で美術館を設計した(現在、[[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]のコレクションで有名な[[クレーラー・ミューラー美術館]])。
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*[http://www.kmm.nl/ クレーラー・ミューラー美術館]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:ベルギーの建築家|はうあんてヴぇうえるて あんり]]}}
[[Category:ベルギーの建築|はんてヴぇるて あんり]]
[[Category:1863年生|はんてヴぇるて あんりベルギーの画家]]
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[[Category:1957年没]]
 
[[bg:Анри ван де Велде]]