「石田一松」の版間の差分

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===演歌師===
レンズ工員を経て[[法政大学]][[予科]][[入学]]。[[授業料]]を稼ぐため[[1920年]]、[[演歌]]の大[[先輩]]・[[添田唖蝉坊]]らの[[東京倶楽部]]に入り[[演歌師]]となる。[[テキヤ]]の[[乾分]]([[子分]])となり、中学時代に少し習った[[ヴァイオリン|バイオリン]]片手に毎夜東京中の[[縁日]]をまわり暗闇の中、[[書生節]]を歌い自ら編集した[[流行歌]]
の歌本を10倍の値段で売って生計を立てた。全ての資金を稼ぐにはこの危険な商売しかなく大学の予科3年・本学3年の卒業まで計約6年、これを続けた。[[ヤクザ]]に殴られ殴り瞼の縁が常に紫色に腫れていた。代表作・インテリ時事小唄『のんき節』はこの時代[[1923年]]頃の作とされる。卒業後[[1930年]]、『[[酋長の娘]]』を作詞・作曲、[[1931年]]には藤波笑声名で『噫中村大尉』を歌いいづれも大ヒットした。当時は日本のレコード会社の創立が始まった時代、『酋長の娘』は[[1929年]]創立された[[ポリドール・レコード#日本のポリドール|ポリドール]]最初のヒットであった。 
*なおそのバイオリンはなぎら健壱が有しているという。
 
[[1932年]]、柳家金語楼の推輓で吉本興業専属となり[[浅草]][[万成座]]で初舞台。“インテリ・時事小唄・法学士”の看板を掲げて[[寄席|高座]]に上がり、洋服姿で[[ヴァイオリン|バイオリン]]片手に『のんき節』で売り出し人気を博した。『のんき節』は[[添田唖蝉坊]]が作ったものだが、石田は自作を加え替え歌にして庶民の側から社会を風刺した。「~凡て内密で取引きするのが闇取引きで御座います。帝国議会の闇取引きは秘密会議と申します~ハハのんきだね~」などと当時の軍部や政治権力、社会の矛盾を辛辣に批判。権力に抵抗する演歌師の姿勢をそのまま昭和の寄席に持ち込んだともいうべき芸で当局には睨まれ、しばしば出演停止を命じられたが庶民からは圧倒的人気を博した。
 
また舞台、テレビ、ラジオのほか、エンタツ・アチャコ([[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]])の[[東宝]][[映画]]・「東京五人男」にも出演するなど幅広く活躍した。また若い頃から政治志向が強く町会議員選挙にも出ている(当落不明)。