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飯泉 喜内(いいいずみ きない、文化2年(1805年) - 安政6年10月7日1859年11月1日))は、幕末土浦藩士。初め渡辺六蔵を名乗った。諱は唯明、のち友輔。別称・一蔵。

藩主土屋彦直に仕えて、代官として民政を預かった。農政で一定の功績を残している。天保3年(1832年)脱藩して江戸浅草の豪商と手代となる。のち旗本曾我権右衛門の侍医飯泉春堂を娘婿に迎えて飯泉氏を名乗るようになる。

嘉永5年(1852年)上京して三条実万の家士となって小林良典村井正礼らと交流した。嘉永6年(1853年ペリー来航に際して『祈りの一言』を実万に建白して幕政を批判。安政4年(1857年)江戸へ戻るも、京都の同志と情報を交換していた。また将軍継嗣問題では橋本左内梅田雲浜らと一橋派に属した。

安政5年(1858年真福寺ロシア人との接触を疑われて下田奉行手付書役大沼又三郎に捕えられる。自宅からは数多の書類が押収され、その中に多くの志士との手紙などがあった事から安政の大獄に発展。世間では「飯泉喜内初筆一件」と呼ばれた。翌安政6年(1859年)左内・頼三樹三郎らとともに江戸千住小塚原刑場で斬刑に処された。

墓所は東京都荒川区南千住回向院