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段芝貴(だん しき、簡体字段芝贵繁体字段芝貴ピンイン:Duàn Zhīguì、1869年 - 1925年3月)は、中国代末期から中華民国時代にかけての軍人。字は香岩安徽省合肥の人。北京政府、安徽派の有力軍人である。

事跡

天津武備学堂を卒業し、光緒21年(1895年)、袁世凱が組織した新建陸軍に加入し、督隊稽査先鋒官、左翼歩兵第2営統帯、北洋常備軍軍政司参謀処総弁、天津南段警察局総弁などを歴任した。光緒34年(1908年)、布政使署理黒龍江巡撫に就任し、さらに北洋第3鎮統制に就任した。

辛亥革命勃発時には、武衛右軍右翼翼長に就任し、民国1年(1912年)、拱衛軍司令に就任した。民国2年(1913年)、江西宣撫使兼第2軍軍長となり、二次革命(第二革命)鎮圧の功績から、湖北都督に昇進した。民国3年(1914年)、彰武上将軍に封じられ、督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)に就任した。民国4年(1915年)8月、鎮安上将軍に遷り、督理奉天軍務(奉天将軍)兼巡按使に就任した。袁世凱の皇帝即位を支持し、12月、一等公爵に封じられた。しかし、東北に地盤を広げようとする張作霖から圧力をかけられ、段は民国5年(1916年)4月に、奉天将軍等を辞任した。

6月に袁世凱が死去すると、段芝貴は段祺瑞率いる安徽派に加わった。民国6年(1917年)7月の張勲による復辟の際には、段芝貴は討逆軍東路司令に任命されて張勲を撃破し、輔威上将軍に封じられた。民国7年(1918年)1月、陸軍総長に就任した。民国8年(1919年)1月、京畿衛戌司令に遷った。民国9年(1920年)7月の安直戦争では、定国軍西路総司令として直隷派と戦ったが敗北し、段芝貴は天津の租界に逃げ込んだ。

民国14年(1925年)3月、死去。享年57。

参考文献

  • 来新夏ほか著『北洋軍閥史 下』南開大学出版社、2001年