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[[Image:Svetozar boroevic von bojna.jpg|thumb|スベトザール・ボロイエビック]]
'''スベトザール・ボロイエビック'''(Svetozar Boroević (or Borojević) von Bojna、[[1856年]][[12月13日]] – [[1920年]][[5月23日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[軍人]]。主に[[第一次世界大戦]]で活躍した。
 
[[1914年]]に[[第一次世界大戦]]が開戦すると[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]に配属され、[[1914年]]9月の初めは、第三軍の指揮官に転進し、10月の初めに、彼はプレツミスル要塞をロシア軍の包囲から一時的に解放し、プレツミスル(現[[プシェムィシル]])の小康状態をもたらす。しかし[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]ではオーストリア軍の敗走が続き、第三軍も[[カルパチア山脈]]まで退く。
 
包囲されたプレツミスル要塞救援すべく、年明けの1月の真冬に攻勢命令が[[参謀本部]]から出るが、真冬のしかも山中の進軍はほとんど叶わず、攻撃は翌月に中止され、翌3月にはプレツミスル要塞のオーストリア軍は降伏し要塞は開城する。しかし程なく[[ドイツ軍]]の増援が到着し、[[アウグスト・フォン・マッケンゼン]]率いる独第十一軍とジョセ[[ヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・フェルディナント]]大公の墺第四軍による、戦線の突出部のゴルリッツ突破をはたすが、この間、[[イタリア]]がオーストリアに宣戦布告し、ボロエビックはプレツミスル奪還を見る前にイタリア戦線に
転属となり、後事をマッケンゼンに託す。独墺軍は翌月にプルゼミスル、続いてレンベルグ奪還を果たす。
 
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降伏に至った([[ヴィットリオ・ヴェネトの戦い]])。これをもってオーストリア軍はほぼ消滅し、終戦とともに帝国はなすすべもなく解体し、彼も退役となる。
 
戦後、領土を縮小されたオーストリア国内に移住し、1920年5月[[クラーゲンフルト]]で死去。
 
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[[Category:1920年没]]
 
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