「マイケル・ドゥーハン」の版間の差分

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1992年シーズン、ホンダは[[ホンダ・NSR500|NSR500]]に不等間隔位相同爆方式のニューエンジン(通称ビッグバン・エンジン)を搭載し、エースライダーとなったドゥーハンに託した。このニューマシンを駆るドゥーハンはヨーロッパラウンドで4連勝。シーズン半ばにしてポイントを大きくリードし、初タイトル獲得を予感させる。ところが、オランダGPでの予選走行中に転倒を喫し、右足に重症を負ってしまう。以降4戦を欠場し、強行出場するも最終戦で[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]の[[ウェイン・レイニー]]に僅差のポイント逆転を許し、王座への執念は実らなかった(レイニーはタイトル3連覇達成)。翌[[1993年]]も後遺症に苦しんだが辛抱強く戦い続け、イタリアGPで復帰後初優勝を挙げる。
 
シーズンオフに右足の再手術を受けて臨んだ[[1994年]]、右足のフィジカルダメージも癒え、自ら開発と熟成に尽力したNSR500とのマッチングは他を寄せ付けないベストパフォーマンスを発揮。デビュー6シーズン目にして念願のワールドチャンピオンを獲得する。以降、[[岡田忠之]]、[[アレックス・クリビーレ]]らチームメイトの挑戦を退け、1998年までタイトル5連覇という偉業を成し遂げる。特に[[1997年]]は15戦中12勝の年間最多勝記録をマークするなど、ドゥーハン専制時代を築きあげた。あまりに続く勝利の山に、'''「走る前から結果がわかってしまうつまらないレース」'''と言わしめるほどの圧倒的な強さを維持し続けた(なぜかスタートだけは上手いアレクサンドロ・バロスが邪魔になり、他のライダーがバロスを抜く間にトップのドゥーハンが安全圏まで逃げると言うレースが多々あった事も事実ではあるが)。[[モータースポーツ]]界においてここまで評価されたのは、近年ではドゥーハンと[[ミハエル・シューマッハ]]くらいであろう
 
しかし、タイトル6連覇のかかる[[1999年]]シーズンの第3戦[[スペイン]]GP([[ヘレスサーキット|ヘレス]])の予選走行中、高速コーナーで激しく転倒し右鎖骨、左手首、右膝を骨折する大怪我を負う。これがきっかけとなり引退を表明。グランプリの"帝王"は第一線から退くこととなった。引退後は[[ホンダ・レーシング]]のGPアドバイザーなどを務め、[[バレンティーノ・ロッシ]]、[[加藤大治郎]]らをサポートした。