「貫高制」の版間の差分

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'''貫高制'''(かんだかせい)とは、[[土地]]の収穫高を[[通貨単位]]である[[貫]]を用いて表わした土地制度・税制・軍制のこと。
 
[[鎌倉時代]]・[[室町時代]]には、田地の面積は、その田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算し「貫」を単位として表された。これを'''貫高'''(かんだか)といい、それを税収の基準にする土地制度を'''貫高制'''と呼ぶ。同じ貫数でも土地の条件などによって実際の面積は異なることになる。これは、米で納めるべき[[年貢]]を銭で代納する「分銭」に由来するもので、[[武家]]の知行高も貫で表し、貫高に基づいて負担する[[軍役]]を定めた。これに対して領主側も用途に応じた標準貫高を定めて把握に努めた<ref>典型的なケースとして後北条氏(伊勢氏)をあげると、田には1段あたり500文、畑は1段あたり150-200文を標準として、永楽銭あるいは代納として米で納めさせた。同氏の制度では100文を米1斗2-4升に換算された。はなお、永楽銭で納付させた貫高制を特に'''永高'''(えいだか)とも称した。</ref>。特に[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]においては、[[自給自足]]体制の崩壊とともに支配階層の貨幣に対する需要が高まった事から普及するが、当時の日本は[[貨幣]]を自給できなかったことや[[鐚銭]]の問題もあり、貫高制を維持するに十分な貨幣流通量を確保できなくなった。戦国時代後期には銀生産量の増加や西国流通経済の活性化などら、銭に代わって銀や米が価値の基本となりつつあったために貫高制は経済的に混乱し、やむなく米などによる代納も行われていた。そのため、江戸時代には、知行高は支給される米の容積による「[[石 (単位)|石]]」([[石高]])で表されるようになった。
 
== 脚注 ==