「佐々木到一」の版間の差分
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[[愛媛県]][[松山市]]生まれ、[[広島県]][[広島市]]育ち。本籍は[[福井県]]。佐々木透([[陸軍少佐]])の長男として生れる。広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島県立国泰寺高校]])を経て[[1905年]]11月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](第18期)を卒業。同期に[[山下奉文]][[陸軍大将|大将]]・[[岡部直三郎]]大将・[[阿南惟幾]]大将ら。翌年6月、[[陸軍少尉]]に任官し[[歩兵]]第11[[連隊]]付となる。[[1911年]]、[[陸軍大学校]]を受験するが不合格。自信を失い[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]から[[満州]]の独立守備隊に転属、このとき[[辛亥革命]]が勃発。それは満州に飛び火し青年将校の血を湧かせたが、佐々木もこれをきっかけには中国に関心を持つようになった。入れ揚げた[[芸者]]のため満州に居残ろうとしたが、支那通として活躍したいなら陸大を卒業しなければならない、という先輩の忠告に発奮し三度目の受験で合格し[[1917年]]11月、陸軍大学校(29期)卒業した。
[[1918年]][[青島
[[1924年]]帰国し、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第二部第六課地誌班長と陸大教官を兼任。傾倒する孫文と国民党の将来性に着目し、国民党主体の第四革命の到来を予言する[[論文]]や著作を発表。しかし当時の陸軍内外では孫文の評価は非常に低かったため、佐々木は国民党にかぶれたと冷笑され「ササキイ、革命はまだかね」と揶揄されるなど批判を浴びた。[[大川周明]]が主宰する神武会の講演で、佐々木が「孫文先生」と言ったところ、大川が孫文に「先生」を付けるとはもっての外だと批判、言い争いとなったのをきっかけに仲良くなり、その後大川の関係する行地社などから佐々木の著書が多数出たという逸話が残っている。[[1924年]]、病床にあった孫文を見舞う。翌[[1925年]]、孫文は亡くなるが、佐々木は「国民党は一層破壊力を逞しくする」と予言。事態はやがてこの不気味な予言の方向に進んでいった。何度も中国に出張し[[1926年]]9月、中佐に昇進、[[北京市|北京]]駐在日本公使館附武官補佐官となる。前任者は[[板垣征四郎]]、後任が[[土肥原賢二]]で武官は[[本庄繁]]。軍閥を嫌う佐々木は当時、安国軍総司令と称して北京に君臨していた[[張作霖]]の元に顕著に出向く本庄を嫌い、このため張作霖の軍事顧問たちも佐々木を嫌った。
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