「アルガーノン・キングスコート」の版間の差分

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キングスコートが優勝した[[1919年全豪テニス選手権|1919年全豪選手権]]は、実際の開催年月は[[1920年]]1月後半になる。彼が[[オーストラリア]]への遠征を決めた理由は、開戦直後に行われた[[1914年]]デビスカップ決勝(1914年8月6日-8日にかけて、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]にある「ロングウッド・クリケット・クラブ」で実施)で「イギリスがオーストラリアに負けたから」だったという。[http://www.daviscup.com/ties/tie.asp?tie=10000597] (彼自身は、その時の代表選手ではなかった。)ところが、彼は大会初日に腕の捻挫を起こし、1回戦の試合出場を断念すると宣言した。これに対して、大会主催者が彼のために治療日を設け、試合日程を1日後にずらしたという。それで気力を回復した彼は、[[ニューサウスウェールズ州]]大学チャンピオンとの1回戦を順調に乗り切り、続く準々決勝で[[アルフレッド・ビーミッシュ]]と顔を合わせたが、同国選手のビーミッシュが不戦敗を宣言する。準決勝で[[ジェームズ・アンダーソン]]を下した彼は、決勝でエリック・ポックリーを 6-4, 6-0, 6-3 のストレートで圧倒し、初優勝を果たした。彼の全豪選手権出場は、この1度だけである。(以上の記述は、下記参考文献のうちブルース・マシューズ著の『ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史』9ページを参照した。)
 
全豪選手権優勝から半年後、キングスコートは[[1920年]]の[[1920年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]男子ダブルスで準優勝した。パートナーは同じイギリスの[[ジェームズ・セシル・パーク|ジェームズ・パーク]]と組んだが、決勝で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ペアの[[リチャード・ノリス・ウィリアムズ|リチャード・ウィリアムズ]]&[[チャールズ・ガーランド]]組に 6-4, 4-6, 5-7, 2-6 で敗れ、準優勝に終わった。この大会のシングルスでは、4回戦で[[ビル・チルデン]]に敗退している。(チルデンは自著『ローンテニスの芸術』の第13章で、キングスコートのプレーに関する詳細な説明を残した。)その後は[[1921年ウィンブルドン選手権|1921年]]・[[1924年ウィンブルドン選手権|1924年]]のベスト8が最高成績であった。キングスコートの活動期間中に、ウィンブルドン選手権ではトーナメントのシステムが変更され、[[1921年ウィンブルドン選手権|1921年]]を最後に「チャレンジ・ラウンド」と「オールカマーズ・ファイナル」が廃止された。[[1922年ウィンブルドン選手権|1922年]]から、すべての選手が1回戦からトーナメントに出場する方式になり、現在に至っている。
 
[[1924年]]、キングスコートは[[パリオリンピック (1924年) におけるテニス競技|パリ五輪]]で[[オリンピック]]に出場したが、シングルス4回戦で[[ジャン・ボロトラ]]([[フランス]])に 1-6, 3-6, 1-6 で完敗した。彼はこの年までデビスカップのイギリス代表選手を務め、[[1927年]]の[[1927年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]2回戦敗退を最後に競技テニスから引退した。全豪選手権優勝とウィンブルドン選手権での活躍から40年ほど後、アルガーノン・キングスコートは[[1964年]][[12月21日]]に[[イングランド]]・[[サリー (イングランド)|サリー州]]ウォーキングにて76年の生涯を終えた。
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* 『我らのオープン-オーストラリア・グランドスラムの100年史』(英語、2004年刊、ISBN 1876176601、全豪オープン公式出版物) 本書からは、大会抽選表を参照した。
* バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス)
 
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[[Category:イングランドのテニス選手]]