「英領ゴールド・コースト」の版間の差分

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'''ゴールド・コースト''' ('''Gold Coast''') は[[アフリカ]]西部[[ギニア湾]]周辺に設けられた[[イギリス|英国]]の[[イギリス帝国|植民地]]。
 
この地域への最初のヨーロッパ人の到来は[[1471年]]の[[ポルトガル]]であった。彼らは[[金]]を産出する諸王国と接触した。[[1482年]]にポルトガルは黄金海岸で最初のヨーロッパ勢の拠点となった[[エルミナ城]]を建てた。ここで彼らは[[奴隷]]、金、[[ナイフ]]、[[ビーズ]]、[[鏡]]、[[ラム酒]]、[[銃]]などを交易した。このことはすぐにヨーロッパに知れ渡り、イギリス、[[デンマーク]]、[[ドイツ]]、[[スウェーデン]]の交易者が海岸線に砦を築いた。多量の金が採掘されたため、ヨーロッパ人によってこの地域は[[ゴールド・コースト|黄金海岸]]と称されてきたが、奴隷も長年にわたって主要な交易品であった。
 
英領植民地はポルトガル、[[オランダ]]に代わり[[1821年]]に英国政府が海岸付近の土地所有権を手にして設置された。[[1850年]]にデンマーク、[[1872年]]にはオランダが全ての砦をイギリスに売却した。
 
イギリスは小王国や他のアフリカ人の国家を支配していた内陸部の[[アシャンティ帝国]]、他のヨーロッパ植民地に侵攻して徐々に支配地を広げた。イギリスにとっての主な課題はガーナの大部分を支配するアシャンティ人の平定にあった。第一次英アシャンティ戦争 ([[1863年]] - [[1864年]]) ではアシャンティの首長と奴隷制への意見のくい違いで衝突した。[[1873年]] - [[1874年]]の第二次戦争でイギリスはアシャンティの首都[[クマシ]]を奪った。[[1893年]] - [[1894年]]の第三次戦争はアシャンティの新たな皇帝が新しい称号を求めたことへ対して行われた。[[1895年]] - [[1896年]]の第四次戦争でアシャンティ帝国は独立を失った。ホジソン総督がアシャンティの玉座を盗もうとしたことへの[[1900年]]のアシャンティの反乱などの結果、[[1902年]][[1月1日]]にアシャンティはイギリスの[[保護国]]とされた。
 
[[1901年]]までに黄金海岸の全域の王国や[[部族]]がイギリス領に組込まれ、金や他の金属、[[ダイヤモンド]]、[[象牙]]、[[コショウ|胡椒]]、[[木材]]、[[トウモロコシ]]、[[ココア]]などの様々な資源がイギリスにより積出された。イギリスの入植者が整備した[[鉄道]]はガーナの鉄道の基盤となった。西洋式の病院や学校も建設された。
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1956年までに[[英領トーゴランド]]、アシャンティ保護国、[[ファンテ保護国]]が併合された。1957年にゴールド・コースト植民地は独立し、国名を[[ガーナ]]と定めた。
 
[[Category{{DEFAULTSORT:イギリスの歴史|こるとこすと]]}}
[[Category:ガーナの歴史|こるとこすとイギリス帝国]]
[[Category:ガーナの歴史]]
 
[[ak:Sika Mpoano]]