「天誅組の変」の版間の差分

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19日、平野国臣が天誅組の本陣がある桜井寺に入り、平野は当初の目的を忘れて天誅組に同調してしまう。しかし、直後に京での政変が伝えられ、挙兵の大義名分が失われた上に天誅組が暴徒と決め付けられ追討の命が下されたことを知り、愕然とする。幕府の追討軍が送られてくるのは確実であり、忠光ら首脳部は協議の末、本陣を要害堅固な天の辻へ移すことを決める。20日、天誅組は天の辻に入り、本陣を定めた。吉村寅太郎が尊王の志の厚いことで知られる[[十津川郷士]]に募兵を働きかけ、960人を集めた。天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、松の木で大砲十数門をつくったが、その装備は貧弱なものだった。十津川郷士も半ば脅迫でかき集められたこともあり、天誅組の強引な指示には疑問を持つ者が少なくなかった。玉木為之進ら数名は天誅組の作戦に抗議し、天の辻で斬首されている。
 
先に天誅組に恭順を約した高取藩は態度を翻し、兵糧の差し出しを断ってきた。これに激怒した天誅組は[[高取城]]攻撃を一決する。25日、中山忠光率いる本隊が[[高取町|高取]]に向かい、吉村寅太郎は別働隊を率いて御所方面に進出して[[郡山藩]]に備えた。天誅組の進発を察知した高取藩は防備を固める。千人余の天誅組に対して、二万五千石の小藩である高取藩の兵力は200人程だったが、地理を熟知していた。26日払暁、狭い小道を進軍してきた天誅組に対して、高取藩兵は[[大砲]]と[[鉄砲]]を激しく撃ちかけて来た。烏合の衆である天誅組はたちまち大混乱に陥り、[[公家]]の忠光にこれをまとめる能力はなかった。天誅組は潰走して五条へ退却する。これを知った吉村は決死隊を編成して夜襲をこころみる。26日夜、決死隊は高取藩の斥候に遭遇、これに斬りかかるが、味方の誤射により吉村が重傷を負ってしまう。決死隊はなすところなく退却して、高取城攻撃は失敗した。天誅組は天の辻の本陣へ戻り、忠光は[[紀伊国|紀州]]新宮へ打って出て船で脱出して[[四国]]、[[九州]]で募兵することを提案するが、吉村らはこれに従わず、忠光は吉村らと別れて別行動をとった。また、この時点で[[三河刈谷藩]]から参加していた伊藤三弥のように早々に脱走するものもあった(後に伊藤三弥は[[松本奎堂]]の密書を岩倉具視に届けたと弁明しているが、岩倉具視と松本奎堂の関係を考えればあり得ないことである。伊藤三弥と同郷の碩学[[森銑三]]は「脱走者三弥の言い訳に過ぎない」と断じている)。この伊藤三弥の脱走は天誅組の脆弱さを示す一例として時にしばしば引用される。
 
==天誅組壊滅==