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'''陸建章'''(りく けんしょう、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|陆建章}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh|陸建章}}'''、[[ピンイン]]:Lù:{{lang|zh|Lù Jiànzhāng}}、[[1869年]][[9月23日]] <ref>徐友春主編『民国人物大事典』は、1879年としているが、ここでは邵桂花「陸建章」に従う。</ref>- [[1918年]][[6月14日]])は、[[中国]]の[[清]]代末期から[[中華民国]]初期にかけての軍人、政治家。字は'''朗斎'''、号は'''八庚'''。[[安徽省]][[蒙城県|蒙城]]の人。[[北京政府]]、[[直隷派]]の軍人である。なお、[[馮玉祥]]は、陸の甥の娘婿という親族関係がある。
 
== 事跡 ==
[[光緒]]7年([[1881年]])、[[淮軍]]に加わった。光緒11年([[1885年]])、[[天津市|天津]]に設置された北洋武備学堂に入学し、[[光緒]]13年([[1887年]])、同学堂の教官となった。([[1895年]])に[[袁世凱]]の新建陸軍に加わる。順調に昇進を重ね、光緒31年([[1905年]])、第6鎮第11協統領官<ref>徐友春主編『民国人物大事典』は、第4鎮第7協統領官としているが、ここでは邵桂花「陸建章」に従う。</ref>に就任し、さらに[[山東省|山東]][[カ沢市|曹州]]鎮総兵、[[広東省|広東]]高州鎮総兵、広東北海鎮総兵を歴任した。
 
[[宣統]]3年([[1911年]])の[[武昌起義]]に際しては、職務放棄の咎で罷免されたものの、まもなく[[北京市|北京]]に召還され、京防営務処総弁に就任した。また、このときに、[[唐山市|灤州]]起義で逮捕された馮玉祥の釈放に助力している。[[中華民国暦|民国]]1年([[1912年]])、北京総統府警衛軍参謀官、左路備補軍統領を務め、さらに警衛軍統領兼北京軍警執法処処長に昇進した。
 
民国3年([[1914年]])、所属部隊は陸軍第7師に改組され、陸は同師師長兼豫陝剿匪督弁に任命されて、[[陝西省]]などで活動する[[白朗]]の討伐に従事した。同年6月、[[張鳳カイ|張鳳翽]]の後任として陝西都督に就任し、まもなく威武将軍督理陝西軍務(陝西将軍)に任命された。民国4年([[1915年]])12月の袁世凱の皇帝即位でも、陸はこれを支持し、一等伯爵に封じられた。しかし、護国戦争([[第三革命]])が発生し、袁世凱が皇帝即位を取り消すと、陸の陝西省における権威は崩壊していく。民国5年([[1916年]])5月9日、配下の陝北鎮守使[[陳樹藩]]が独立を宣言し、また、子の陸承武も革命派の鎮圧に向かって逆に兵変で捕虜とされた。陸建章は、陸承武の身柄引渡しなどを条件に、陳に陝西省の統治権を譲渡し、北京に逃げ帰った。
 
北京に戻ってからは、陸建章は直隷派に属し、第16混成旅を率いる馮玉祥を利用して北京政府内で台頭を目指す。民国6年([[1917年]])、炳威将軍に任命され、さらに総統府高等軍事顧問に就任した。[[安徽派]]と直隷派の南方政府をめぐる路線対立では、直隷派の重要幹部として、さまざまな謀略を駆使した
民国6年([[1917年]])、炳威将軍に任命され、さらに総統府高等軍事顧問に就任した。[[安徽派]]と直隷派の南方政府をめぐる路線対立では、直隷派の重要幹部として、さまざまな謀略を駆使した。
 
しかし、[[段祺瑞]]ら安徽派の陸に対する反感が強まっていき、民国7年([[1918年]])6月14日、陸は[[天津市|天津]]で安徽派の[[徐樹錚]]の急襲を受けて暗殺されてしまった。享年50(満48歳)。後に馮玉祥は、陸の復仇として、徐を暗殺している。
 
== 注 ==