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{{大統領|
[[Image:Isabelita.jpg|thumb|right|200px|人名=イサベル・マルチネス・デ・ペロン]]
'''イサベル・マルチネス・デ・ペロン'''(Isabel Martínez de Perón,[[1931年]][[2月4日]] - )は、[[アルゼンチン]]の政治家、大統領(在任1974年-1976年)。[[フアン・ペロン]]大統領の3番目の夫人。
|各国語表記=Isabel Martínez de Perón
|画像=Isabelita.jpg
|画像サイズ=
|国名=アルゼンチン
|代数=第42
|職名=大統領
|就任日=[[1974年]]
|退任日=[[1976年]]
|副大統領=
|元首=
|出生日=[[1931年]][[2月4日]]
|生地=[[ラ・リオハ州 (アルゼンチン)|ラ・リオハ州]]
|配偶者=[[フアン・ペロン]]
|政党=[[ペロン党]]
|サイン=
}}
'''イサベル・マルチネス・デ・ペロン'''(Isabel Martínez de Perón,[[1931年]][[2月4日]] - )は、[[アルゼンチン]]の政治家、大統領(在任1974年-1976年)。[[フアン・ペロン]]大統領の3番目の夫人。世界初の女性大統領として世界から注目を浴び、国民からは[[エバ・ペロン]]の再来として期待されたが、政治家としての力量はなく、治安、経済共に悪化させ遂には解任された
 
== 来歴 ==
イサベルは[[スペイラ・リオハ州 (アルゼ]][[チン)|ラ・リオハ州]]で六人兄弟の末っ子として生まれ、ナイトクラブの歌手父親早くに亡くし苦生活をおくりなら母親に育てられた。18歳で職業ダンサーとなり各地で巡業し、[[パナマ]]でナイトクラブで働いていた時に[[亡命]]していたペロンと知り合う。ダンサーを辞め愛になり世界各地を転々として1961年に[[マドリッド]]で結婚して[[スペイン]]で暮らしていたが夫のメッセンジャーとしてアルゼンチン国内のペロン党に接触し頻繁に両国を往復している。そしてペロン派の復権により夫婦でアルゼンチンに向かった。
 
1973年に大統領選挙に当選したペロンは、副大統領にイザベルを指名するが、帰国1年で病死したため、イサベルは世界初の女性大統領として就任した。最初は[[エビータ]]を意識して同じ格好をしていたがすぐに辞め社会福祉大臣のホセ・ロベス・レガを頼りにするようになる。イサベル政権は2年続くが、既にペロン党自体が分裂状態にあり、[[オイルショック]]によって300%を超える[[インフレーション]]に見舞われ、経済危機に立たされる。[[左翼]]テロと政治的混乱によって統治能力を失ったイザベル政権に対して、軍部はまずホセ・ロベス・レガを辞任させ1976年3月24日には[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]将軍が[[クーデター]]を起こして権力を奪った。逮捕されたイザベルは[[横領罪]]で5年間収監された。釈放されるとスペインに帰国してひっそりと(ボディーガードに囲まれてはいるが)余生を過ごしていた。
 
しかしアルゼンチン連邦当局は、クーデターの1月前に活動家[[エクトル・ファガッティ]]の身柄を拘束してその失踪に関与した容疑で、[[2007年]][[1月11日]]にイサベルに対する[[国際逮捕状]]を発行した。これを受けてスペイン警察当局によって翌日、[[マドリード]]西部の自宅で逮捕された。彼女は、腰の骨折で入院していた。取り調べ後、高齢のため15日おきに出頭することを条件に保釈された。今後、アルゼンチンへの引き渡しの可否をめぐる審理が行われる見通しである。