「土倉」の版間の差分

編集の要約なし
m (sty)
編集の要約なし
[[室町幕府]]は土倉に対し、[[倉役]](土倉役)と呼ばれる税を課し、主要財源の一つとなる。特に[[明徳]]4年([[1393年]])には幕府は土倉に対して年間6,000貫文の納付と引き換えに寺社等が持つ一切の支配権を否定して臨時課役の否認を認めた。以後、延暦寺などの寺社と幕府の間で激しい駆け引きが行われるが、当時は室町幕府の全盛期であったため、これに抗うことは出来なかった。寺社から自立した土倉は幕府と結びつきながら、[[永享]]年間には土倉による[[座]](土倉方一衆)が形成されるようになる。幕府は'''納銭方'''と呼ばれる役職を設けてこれらの徴税にあたったが、納銭方に任ぜられるのは土倉・酒屋の中の有力者で、自然と幕府の経済政策に対する影響が大きくなっていった。また、室町幕府は土倉を保護すると共に統制した。それまで利息は高額なところでは8文子、10文子(元金100文につき月利8〜10文)であったが、4文子以下にするように法令を出した。しかし実際には一般的な土倉の利息は6文子が平均相場であったとされ、法令もあまり守られなかったようである(なお、寺院の[[祠堂銭]]は2文子が相場であったとされている)。また、幕府の規制によって自由な開業や廃業、火災などを理由とした倉役免除などは原則的には認められていなかった。南北朝の動乱以降、[[荘園制]]が崩れてくると、荘園領主である[[貴族]]や寺社の資金繰りが苦しくなり、土倉・酒屋に借金を重ねる。土倉・酒屋の中には貴族や寺社から荘園の徴税権を担保にし、実際に荘園領主の代官として現地に乗り込んで年貢を徴収する者も現れた。また、スポンサーである寺社の没落と対照的に土倉・酒屋は栄え、独立していく。
 
これら土倉・酒屋は資金力にものを言わせ、有力な[[町衆]]として[[自治都市]]の主導権を握る。その一方、室町時代中期以後には高利・日歩による利息で小規模資本で営業を行った[[日銭屋]](ひぜにや)と呼ばれる金融業者が登場して土倉の営業分野を侵食し始めた。また、多くの人から恨みを買いやすい土倉・酒屋はたびたび、[[徳政一揆]]で襲撃の対象にされた。土倉・酒屋はそれに対抗し、金で用心棒を雇い自衛するようになった。また、室町幕府も[[徳政令]]が出されると倉役を免除しなければならなかったためにので財政収入に影響を与えたためにその対策に苦慮し、後に[[分一銭]]を導入して債権額の1/10(後に1/5)を幕府に納入することを徳政令適用の条件とし、後に土倉などが徳政令適用除外のためにこれを納めることも認めた。また、納銭方に[[請負制]]を導入して倉役収入の安定化も図っている。
 
{{economy-stub|とそう}}
383

回編集