「藤原聖子」の版間の差分

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== 夫婦関係 ==
崇徳院は[[女房]][[崇徳院兵衛佐局|兵衛佐局]](法印信縁女で[[大蔵卿]][[源行宗]]の養女、[[重仁親王]]生母)を深く寵愛し、聖子とは疎遠であったという説があるが、これは的確でない。崇徳天皇の在位中、聖子は常に天皇と同殿しており、退位後も、しばしば上皇が聖子の御所へ[[行幸|御幸]]、もしくは聖子が上皇御所へ[[行啓]]している。保元の乱の後、崇徳院が讃岐へ配流になった際に兵衛佐局が同行したのに対し、皇嘉門院が同行せずに都に留まったのは、立場の相違に由来するものであって、寵愛の程度によるものではない。たとえば、後世の[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の配流に際しても、随行したのはそれほど身分が高くない女房で、院の寵愛篤い[[藤原重子|修明門院]]はお供していない。貴人の配流に際し、身の回りの世話をするために、近侍していた人々がお供をした。皇嘉門院のように、只今の[[女院]]、かつて天皇の正妃・母后として中宮・皇太后の尊位にあった女性は、上皇とほぼ同等の身位にあり、上皇に随侍する立場にない。女院は、同行しないというより、通例では同行できないのである。そして何よりも、讃岐への同行は関白の位にある父忠通が許さなかったに違いない。皇嘉門院は、忠通の嫡妻腹の一人娘で、忠通がその遷幸を傍観するはずがないのである(忠通は、摂関家の体面を粉々に潰した保元の乱において、辛うじて戦勝者となっている。忠通の後ろ盾によって、保元の乱以後も皇嘉門院は朝廷で尊重された)。
 
== 略歴 ==