「上杉憲盛」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
|||
20行目:
[[山内上杉家]]の[[上杉憲政]]が[[上野国]]を追われると、[[関東管領]]としての[[上杉氏]]の権威も衰退した。周囲が北条氏に下る中、[[岡谷清英]]や[[秋元景朝]]ら重臣の活躍によって深谷城を守り続けるが、やがて憲賢父子も苦渋の決断により北条氏に降伏した。[[永禄]]3年([[1560年]])、父の死とともに憲盛が[[家督]]を継いだ。
後に、山内上杉氏の家督を継いだ[[上杉謙信|上杉政虎]](謙信)が大軍を率いて関東侵攻を始めると同族の誼でこれに寝返るが、北条氏が勢力を回復すると永禄6年([[1563年]])には再度北条氏に降る。この時、
ところが、[[1569年]]([[永禄]]12年)の[[越相同盟]]の締結によって深谷城が上杉氏の勢力下に入ったために
憲盛の子孫としては、[[平福藩]]に仕えた[[上杉憲俊]]、[[真田幸定]]の[[舅]]である[[深谷盛定]]、[[江戸時代]]後期に[[大目付]]や[[勘定奉行]]などを務めた[[深谷盛房]]らが確認されている。
|