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藤田と名乗り、[[島津斉宣]]の娘で[[近衛忠煕]]に嫁いだ[[郁姫]]付きの[[女中]]として、ともに[[京都]]の[[近衛]]邸で過ごした。[[嘉永]]3年([[1850年]])に郁姫が亡くなると[[出家]]して得浄院と号し、近衛忠煕に仕えながら郁姫の菩提を弔った。
 
その後、薩摩藩主[[島津斉彬]]の養女[[天璋院|島津篤子]]を近衛忠煕の養女として徳川家定に嫁がせる事が決まり、幾島と改名して篤子付きとなった。その際、近衛家の家士[[今大路孝由]]の娘として[[大奥]]に入ったという。その後は[[江戸城]]と[[薩摩藩]]との連絡役・密偵役としても活動し、[[西郷隆盛]]を通して江戸藩邸の奥老女[[小ノ島]]と連絡し、将軍継嗣問題や薩摩藩との連携に大きな役割を果たした。[[元治]]元年([[1864年]])、体調を崩し、その翌年ころに[[致仕]]したという。6368歳で東京で没し、島津家の菩提寺である[[大円寺 (杉並区)|大圓寺(東京)]]に葬られた。
 
しかしながら、奥女中分限帳の篤子付き女中の一覧には幾島の名は存在しない。代わりに「つぼね(局)」という御年寄の名が記されており、このつぼねが今大路孝由に所縁のある女中とされていることから幾島に相当する人物であろうことが分かっている。公家の養女として奥入りしながらも上臈ではなく御年寄の職に就いていることは一考の余地があるだろう。