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== 米国時代 ==
1938年末ジェームズは SWP の資金で米国に渡り、後12年間過ごす。しかしジェームズは[[1940年]]にはトロツキーの[[ソビエト連邦]]に対する[[堕落した労働者国家]]という分析に深刻な疑問を抱くようになり、[[労働者党 (アメリカ)|労働者党]] (WP) を結成する[[マックス・シャハトマン]]と SWP を離れた。WP でジェームズは[[ラーヤ・ドゥナエフスカヤ]]とジョンソン=フォレスト傾向潮流(あるいはジョンソン派)をつくった。ジェームズの偽名ジョンソンとドゥナエフスカヤの偽名フォレストを[[グレース・リー・ボッグス|グレース・リー]]が合わせて名付けたもので彼女がこの見方を党内で広めた。
 
WP党内の J-F傾向はかなり発展し、[[第二次世界大戦]]の終りまでに、彼らはトロツキー理論による堕落した労働者国家としてのロシアを決定的に拒絶し、代わりにそれを[[国家資本主義]]と分析した。彼らは抑圧された少数者の自治運動へと向かっていった。それは1939年に持たれたトロツキーとの論争にも既に現れていた。自治闘争への関心はこの傾向の中心に据えられるようになった。
 
[[1945年]]以降 WP は革命闘争が減少するとの見通しを示した。J-F傾向潮流は対照的に闘争が増加すると予想し、WP より労働者寄りになっていた SWP も同様の見通しを示していた。そのため彼ら J-F傾向潮流は独立した小グループとして数ヶ月大量の出版をした後1947年に SWP に加入した。
 
ジェームズは[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の革命党の[[前衛]]の概念を否定しつつ自らを[[レーニン主義|レーニン主義者]]と規定し、社会主義者が興隆した[[黒人ナショナリズム|黒人ナショナリスト]]運動を支援するように議論した。彼は[[1949年]]までに[[前衛党]]の概念を否定していた。このため彼らはトロツキスト運動から離れ、通信出版委員会に改名した。[[1955年]]に委員会のメンバーの半数近くがラーヤ・ドゥナエフスカヤの指導を離れ、[[マルクス人道主義]]傾向をつくり、[[ニュース通信委員会]]を組織した。ラーヤ・ドゥナエフスカヤ派が多数派であったか少数派であったかは議論の対象となっている。歴史家のケント・ウォーセスターはドゥナエフスカヤ派が多数派であったと主張し、[[マーティン・グラバーマン]]は『ニューポリティックス』誌上でジェームズ派が多数であるとした。[[1962年]]にはグレース・リー・ボッグスと[[ジェームズ・ボッグス (活動家)|ジェームズ・ボッグス]]がより[[第三世界主義]]を追求するために委員会から分離した。マーティン・グラバーマン含むジョンソン派はジェームズの英国からの助言を受けフェイシング・リアリティと改名し、1970年にジェームズの意に反し解散するまで活動した。彼は自身のライフワークをレーニン主義の理論と実践の拡張と看做したものの、ジェームズの著作はマルクス主義思想の内の[[自治主義]]の流れの発達に影響力があった。