「阿弥陀信仰」の版間の差分

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末法思想とは、[[釈迦|釈尊]]入滅後千年を正法、次の千年を像法とし、計二千年を経過した次の一万年を末法とする[[終末論]]とも言える思想で、中国から伝播した。その時代には仏の法力が及ばず、世界が破滅すると考えられ、貴族も庶民もその到来に怯えた。更に末法では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、その救いを阿弥陀如来に求める浄土信仰が盛んとなった。
 
[[最澄]]([[767年]]-[[822年]])に仮託される『末法灯明記』によれば、末法第一年に当たるとされたのは平安末期の[[1052年]]([[永承]]7年)で、その年に関白・[[藤原頼道]]が京都[[宇治]]の[[平等院]]に阿弥陀信仰のシンボルとも言える阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「[[浄土三部経]]」の『[[仏説[[観無量寿経]]』や『[[仏説[[阿弥陀経]]』に書かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。「極楽が信じられないなら宇治の御堂を敬え」と当時の謡曲でも謡われた。
 
この頃には、阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに[[中尊寺金色堂]]、[[法界寺]]阿弥陀堂、[[白水阿弥陀堂]]などがある。