「憲徳王」の版間の差分

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即位するとただちに[[唐]]に使者を派遣して先代の哀荘王の死を伝え、唐の[[憲宗 (唐)|憲宗]]からは〈開府儀同三司・検校大尉・持節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王〉に[[冊封]]された。このとき王妃に対する冊命では王妃は貞氏とされている<ref>唐の同姓不婚の風習を考慮して別姓を名乗ることとなったもので、王妃は礼英角干(1等官)の娘であり、兄弟(均貞、憲貞)の輩行字の影響からか、貞氏としている。[[哀荘王]]の脚注も参照。</ref>。その後も唐に対しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の仏像などを献上したほか、定期的に[[朝貢]]を行なった。また、[[819年]]7月には唐の{{lang|zh|鄆州}}([[山東省]][[済寧|済寧市]])で[[李師道]]が反乱を起こすと、兵馬を徴発する憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら3万の兵を派遣し、唐を援けている。
 
[[812年]]9月には[[渤海 (国)|渤海]]へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王[[大仁秀]]が即位するに及んで緊張を増し、後に[[826年]]7月には[[新羅#九州|漢山州]]([[京畿道]][[広州市 (京畿道)|広州市]])以北の州・郡から1万人を徴発して{{lang|zh|浿江}}([[大同江]])沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。
 
一方、国内では度々災害が起こって民が餓える事態が発生しているが、[[租]]を免じたり穀倉を開いて施したりしているものの有効な手立てとはならず、盗賊が跋扈するに至り軍隊を派遣してこれを鎮圧するなど、安定した政治が行なわれているわけではなかった。[[816年]]には飢饉に見舞われて食を求めて唐の[[浙江省]]東部へ流入した民が170人にものぼった。また、この前後で日本に逃れたものも200人以上になったという<ref>井上秀雄1972 p.236.</ref><ref>『[[日本後紀]]』巻二十五(逸文)[[嵯峨天皇]]・[[弘仁]]七年(816年)冬十月:「甲辰。大宰府言、新羅人清石珍等一百八十人帰化。」<br />同八年([[817年]]):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等卌三人帰化。」</ref>。[[819年]]3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて鎮圧することに成功している。しかしこうした地方勢力を王権のもとに確実に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に対して地方勢力は反感を持ちながらも、団結して対抗するための中心を求めていた。[[新羅#九州|武珍州]]([[全羅南道]]、[[光州広域市]])・[[新羅#九州|菁州]]([[慶尚南道]][[晋州市 (慶尚南道)|晋州市]])・[[新羅#九州|熊川州]]([[忠清南道]][[公州市]])の都督職を歴任した[[金憲昌]]が[[822年]]3月に反乱を起こし、熊津(公州市)を都として長安国と号すると、その支配領域は武珍州・菁州・熊川州・[[新羅#九州|完山州]]([[全羅北道]][[全州市]])・[[新羅#九州|沙伐州]]([[慶尚北道]][[尚州市]])の五州及び[[新羅#五小京|国原]]([[忠清北道]][[忠州市]])・[[新羅#五小京|西原]](忠清北道[[清州市]])・[[新羅#五小京|金官]](慶尚南道[[金海市]])の三小京に及んだように、旧[[百済]]の領域を中心として国土の大半が金憲昌を支持し、王権に対抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたが、乱の鎮圧に活躍した討伐軍は貴族の私兵と[[花郎]]集団であり{{fact}}、律令体制の下での兵制は有名無実化していることが露見した。[[825年]]1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道[[驪州郡]])を根拠として反乱を起こしたが、これは北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧された。