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[[Image:Utagawa Kunisada-c1850-Horibe Yahei-Horibe Yasubei.jpg|thumb|250px|忠臣蔵:[[堀部金丸|堀部弥兵衛]]と[[堀部武庸|堀部安兵衛]] [[歌川国貞]]作]]
'''堀部 金丸'''(ほりべ かなまる(あきざね)('''弥兵衛'''(やへえ))、[[寛永]]4年([[1627年]])-[[元禄]]16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1703年]][[3月20日]]))は[[江戸時代]]、赤穂四十七士[[武士]]一人[[播磨国]][[赤穂藩]]士。では前江戸留守居、前300石、隠居料20石。父は[[赤穂浪士堀部勝綱]]。母は不詳。本姓は源氏([[近江源氏]])。家紋は十七士の一人ツ目結二ツ
 
== 生涯 ==
[[浅野長重]]の家臣堀部弥兵衛]]の子として常陸国笠間に生まれる。堀部家は祖父[[堀部助左衛門|助左衛門]]以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死に若年より[[浅野長直]]、[[浅野長友|長友]]、[[浅野長矩|長矩]](内匠頭)の三代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となる。妻に山田氏の女、さらに後妻として忠見氏の女わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には[[堀部弥一兵衛|弥一兵衛]]と[[堀部ほり|ほり]]の一男一女をもうけたが、元禄5年(1692年)12月に長男弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の[[本多喜平次]]に殺された(本多は弥兵衛が討ち取ったという)。嫡男を失った弥兵衛は後妻わかの実家忠見氏から[[堀部言真|堀部文五郎言真]]を養子に迎えたが、藩主[[浅野長矩]]から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった。
 
元禄7年([[1694年]])、[[高田馬場の決闘]]で活躍した[[浪人 (武士)|浪人]][[堀部武庸|中山安兵衛]]を見込み、娘ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、弥兵衛は隠居して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった。
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[[category:赤穂浪士|ほりへかなまる]]
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[[Category:1627年生|ほりへかなまる]]
[[Category:1703年没|ほりへかなまる]]