「出石藩」の版間の差分

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→‎仙石騒動: 主観ととれる記述を削除。幕府内抗争との関連を記述
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== 仙石騒動 ==
[[お家騒動]]の1つとして有名な[[仙石騒動]](せんごくそうどう)が勃発したのは、第6代[[藩主]]・[[仙石政美]]の時代である。藩財政の逼迫に伴い、筆頭家老の[[仙石左京]]は改革産業振興策を、もう1人の家老・[[仙石造酒]]は質素倹約の保守政策をそれぞれ主張し、対立していた。藩主・政美は左京の政策を支持し、それを背景にして左京は強引な改革を推進する。[[文政]]7年([[1824年]])、藩主の政美が嗣子無くして没すると、[[江戸]]で後嗣を選定するための一族[[旗本]]らを含めての会議が持たれた。仙石左京は国許の代表として会議出席のため江戸へ出るが、その際に自分の子・[[仙石小太郎]]を同伴する。実際には仙石左京は会議の場で自分の子のことを持ち出すことはなく、継嗣は[[仙石久利]]ということで決するが、長年、左京の強引な藩政を快く思っていなかった反左京派は、左京の行動が不穏であるとして糾弾し、左京は失脚する。こうして藩政の実権は、仙石造酒派の手に落ちた。しかし、仙石造酒派は派内で争いを起こして自滅し、左京が再び政権の座に返り咲く。だが、反左京派の残党の不満は収まらず、左京がなおも自分の子を藩主に就けるべく、藩主・久利の暗殺まで計画しているなどと誹謗中傷を繰り返し、ついに藩内の争いは幕府にまで届き、幕府の裁定を仰ぐこととなる。しかし当時の幕府では[[松平康任]]派と[[水野忠邦]]派の抗争が起こっており、仙石左京は[[老中]]松平康任と姻戚関係で騒動の内々の処理も依頼する関係だったため、騒動の裁定は幕府の派閥抗争に巻き込まれる形となった。結果、[[天保]]6年([[1835年]])、仙石左京は獄門に、出石藩も知行が半分の3万石に減封となった。幕府側では松平康任が老中を退き、一方で水野忠邦が政治基盤を固めることとなった。
 
ちなみに、この仙石騒動が起こったとき、時代はすでに[[幕末]]の動乱期に突入していた。いわばこ幕末お家騒動は、もはや時代錯誤と言えるようなも改革なかあろうの対立の結果だった
 
== 歴代藩主 ==