「ルーキー新一」の版間の差分

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[[塾]]を経営していたが、[[1957年]]ごろ、黒崎清二と「'''梅乃松夫'''・武夫」として[[松竹芸能]]からデビュー。
 
[[1961年]]、[[吉本興業]]に移籍し、「ルーキー新一・清二」と改名。[[1963年]]ごろから単身、コメディアンとして活躍し「てなもんや三度笠」や「スチャラカ社員」などに出演し頭角を現した。1965年1月からは、ライバル・[[秋山たか志]]との次期座長レースに競り勝ち、[[吉本新喜劇]]の座長に就任「いや~ん、いや~ん」「これはエライことですよ!」「あなた知らないのホホホン」などのギャグを流行させた。新喜劇では[[白羽大介]]とコンビを組み、その演技力は他の追随を許さず、コメディに必要な間・息・勘などの要素すべてに完璧さを示した。ボケて泣いて観客を芝居に引きずり込む力は天才であった。しかし、座長就任からわずか9ヶ月後の1965年10月、兼ねてからあった吉本首脳陣との意見の齟齬が原因で吉本からの独立を決断、白羽大介、[[森信]]と三人で「ルーキー爆笑劇団」を旗揚げした。
 
しかし、[[1968年]]、女性劇団員の入浴を覗いたとして一般男性を恐喝して逮捕、[[1970年]]には有罪判決を受け、これまで順風満帆に進んできた芸能生活にもこの一件が大きな影を落とすこととなってしまう。再起を賭けて[[東映]]の「極道シリーズ」に出演したり、北一郎と漫才コンビを組んだり、シングルレコード「木屋町ブルース」を発表するなど様々な試みを図ったものの、周辺のスキャンダルの噂が絶えず、どれも第一線への再浮上のきっかけとなるまでには至らなかった。