「李茂貞」の版間の差分

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[[907年]]、朱全忠は[[唐]]を滅亡させ[[後梁]]を建国する。この動きに合わせ各地方の藩鎮も次々と地方政権を樹立し「王」や「皇帝」を自称するに至った。先の戦いで勢力をそがれた李茂貞であるが王府を開き、百官を設置し自立政権としての体裁を整えた。また居所を宮殿、妻を皇后と称すなどしたが、昔日の勢力は無く、後梁と[[前蜀]]にはさまれ細々と命脈を保っていたに過ぎない。
 
[[後唐]]の[[李存勗]]が[[後梁]]を滅ぼすと、[[924年]]に李茂貞はその圧力に屈してその領土を[[李存勗]]に献上した。李存勗は[[後唐]]の諸侯王として「秦王」の称号を与えたが、国家としての「岐」はここに滅亡した。ほどなく李茂貞は病死する。鳳翔県(陝西省宝鶏市金台区陵郷陵村の東)で妻との合葬墓に葬られた。今日では[[1998年]]に墓が発見され、[[1999年]]11月と[[2001年]]4月から9月にかけて発掘調査が行なわれ、その報告集も公刊されている。
 
==子女==