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'''高橋 義人'''は、[[日本]]の[[ヤクザ]]、[[右翼]]活動家。[[暴力団]]・[[義人党]]初代党首。
 
==来歴==
[[昭和]]37年([[1962年]])夏ごろから、[[右翼]]活動家の[[児玉誉士夫]]は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「[[東亜同友会]]」の構想を掲げ、[[稲川会|錦政会]](後の稲川会)・[[稲川聖城|稲川裕芳]](後の稲川聖城)会長、[[北星会]]・[[岡村吾一]]会長、[[東亜会|東声会]](後の東亜会)・[[町井久之]]会長、[[松葉会]]・[[藤田卯一郎]]会長、[[義人党]]・高橋義人党首らに根回しを始め、同意を取り付けた。
 
昭和38年([[1963年]])2月11日、[[京都市]]の都ホテルに、稲川裕芳、岡村吾一、町井久之、、高橋義人、藤田卯一郎、田岡一雄ら全国の主だった組長が集まり、児玉誉士夫の構想が披露された。[[関東]]の組長を稲川裕芳が、[[関西]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]の組長を田岡一雄が、[[九州]]の組長を児玉誉士夫がまとめて、意思統一を図った。