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'''木下 俊保'''(きのした としやす、[[宝永]]3年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]([[1706年]][[8月30日]])- [[元文]]3年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1738年]][[10月12日]]))は、[[豊後国|豊後]][[日出藩]]の第6代藩主。第3代藩主・[[木下俊長]]の四男。官位は従五位下[[和泉国|和泉]]守。名は'''長保'''(ながやす)とも
 
第3代藩主・[[木下俊長]]の四男。官位は従五位下[[和泉国|和泉]]守。'''長保'''(ながやす)とも名乗った。幼名は千五郎。
1706年7月23日生まれ。幼名は千五郎。第4代藩主・[[木下俊量]]のすぐ下の弟だが、34歳も年齢が離れている。はじめ[[木下長胤]]の養嗣子となり、幕臣として幕府に仕えて書院番に任じられた。[[1731年]]、兄の子で本家を継いでいた[[木下俊在]]が若死にしたため、その養嗣子となって後を継いだ。
 
1706宝永37(1706年)7月23日生まれ。幼名は千五郎。第4代藩主・[[木下俊量]]のすぐ下の弟だが、34歳も年齢が離れている。はじめ[[木下長胤]]の養嗣子となり、幕臣として幕府に仕えて書院番に任じられた。[[享保]]16年([[1731年]]、兄の子で本家を継いでいた甥の[[木下俊在]]が若死にしたため、その養嗣子となって後を継いだ。
しかし[[享保の大飢饉]]などで藩内が大被害を受け、幕府より3000両を借用したり、そのために悪化した藩財政を再建するために[[藩札]]を発行したりしたが、在位7年後の1738年8月29日、日出で死去した。享年33。後を養嗣子の[[木下俊監]]が継いだ。法号:竜渓院円応浄覚。墓所:[[速見郡]][[日出町]]の松屋寺。
 
しかし[[享保の大飢饉]]などで藩内が大被害を受け、幕府より3000両を借用したり、そのために悪化した藩財政を再建するために[[藩札]]を発行したりしたが、在位7年後の1738元文38(1738年)8月29日、日出で死去した。享年33。後を甥で養嗣子の[[木下俊監]]が継いだ。法号:竜渓院円応浄覚。墓所:[[速見郡]][[日出町]]の松屋寺。