「全米女子プロ野球リーグ」の版間の差分

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創設者は、[[チューインガム]]の製造メーカーの役員をしていたシカゴのフィリップ・K・リグレーで、彼は父ウィリアム・リグレーの死後、[[シカゴ・カブス]]のオーナー職も受け継いでいた人物である。当時は[[第二次世界大戦]]下で多くの著名なメジャーリーガーが兵役についており、選手不足のためマイナーリーグのいくつかは破綻に追い込まれていた。リーグの創設は野球への関心が薄れないようにするためのリグレーの発案でもあった。
 
1943年春にリーグの評議会が設立され、試合のルールなどが決定された。リーグ組織自体は非営利団体とされ、評議会は創設者のリグレーの他に、カブスのゼネラルマネージャー補佐だったケン・セルス、当時の[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]の代表であった[[ブランチ・リッキー]]、カブスの弁護士だったポール・V・ハーパーらが参加する評議会により運営で構成された。リーグの理事はケン・セルスがつとめた。
 
その後当時のソフトボール選手を中心にスカウトが全米で行われた後、同年5月、リグレーフィールドに候補者280名を集めた入団試験が行われ、選出された60名の選手が15人ずつ4チームに割り当てられた。初年度は前後期制のペナントレースが行われ、1球団あたり計108試合を行って、リーグ全体で176,612人の観客を動員した。翌1944年には2チームを加えて6チームに拡張されたが、チーム間の人気や観客動員等に差が生じたことなどから運営がうまくいかず、資金に行き詰ったリグレーはリグレー社の広告代理業者だったアーサー・マイヤーホフに経営を譲渡する。