「ピエール・シャルル・ランファン」の版間の差分

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[[Image:l_enfant.gif|frame200px|rightframe|ピエール・シャルル・ランファン]]
 
'''ピエール・シャルル・ランファン'''(フランス語名:'''Pierre Charles L'Enfant'''、[[1754年]][[8月2日]] - [[1825年]][[6月14日]])は、[[フランス]]生まれのアメリカの[[建築家]]、[[都市計画家]]。現在は[[ワシントンD.C.]]としても知られる、[[アメリカ合衆国]]の連邦都市建設計画の[[コンペ]]に当選し基本計画案を作成した人物である。
戦争に続いて、ランファンは[[ニューヨーク]]にある[[フェデラル・ホール]]の再設計を行ったことで、[[建築家]]としての名声を得た。そのほかにも彼は硬貨、メダル、そして富裕な人々への家具や住居をデザインした。その後まもなく、縁故があったために彼はアメリカ合衆国の最初の大統領となったジョージ・ワシントンより、3人の長官の監督の下で新しい連邦首都の意匠を担う人物に指名された。後にコロンビア特別区となる、10平方マイルの連邦地域の計画立案と土地開発を監督させるため、ワシントンは3人の長官を任命していた。ランファンは[[1791年]]に設計に取りかかった。
 
[[Image:L'Enfant_plan.jpg|160px|right300px|thumb|アンドリュー・エリコットにより改訂されたランファンのワシントンD.C.計画案]]
 
全体として都市のデザインを形にしようとする起伏の激しい気質と強い主張のため、ランファンの連邦都市設計案は彼が存命中に一部分しか実行されなかった。地区の監督達は、限られた資金を連邦の建造物の建設に利用できるように割り当てたいと願っていた。彼らはこの時[[トマス・ジェファーソン]]の援助を受けている。しかし、ランファンが監督達と度々衝突を引き起こしていたため、ジョージ・ワシントンはランファンが設計図の出版業者を見つけるより先に、彼をこの事業計画から解雇した。ジョージ・ワシントンはランファンが起した設計原案の中の一つを写したものを保持していた。この写しは現在[[アメリカ議会図書館]]が所有している。この写しの左手側上方の隅にある楕円形の中に書かれている最後の一文に、設計者である「ピーター・シャルル・ランファン」と書かれているのがわかる。