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==人物==
[[沖縄県]]出身。本名は識名盛夫。[[ハワイ]]に移住([[日系アメリカ人]])。ハワイ相撲の横綱ハワイ柔道選手権舎として活躍した後、1931年にタロー・三宅([[三宅多留次]])に出会いプロレスラーとなる。タロー・三宅は、当時アメリカで大活躍をしていた日系レスラーである。
 
沖識名は、プロレスラーとしては技量が優れてお、なかなかの実力者であり、5人の世界チャンピオンと選手権を争ったことがあるが、惜しいところでタイトルは取れなかった。柔道仕込みの関節技の名手だったという。また、若い頃の[[ルーテーズ]]にレスリングを教えたことがあるのが自慢のひとつだった。
 
[[1948年]]にプロレスラーとしての現役引退後、[[1951年]]、ハワイで[[ハロルド坂田]]の誘いでプロレスに転向した[[力道山]]のコーチを務める。以後、[[日本プロレス]]で長年に渡ってメインレフェリーを務め、特に暴走する外国人レスラーにシャツを破かれるシーンが定番だった。
 
{{和暦|1973}}3月の日本プロレス崩壊により引退。同年10月に[[蔵前国技館]]で引退興行([[全日本プロレス]]主催)が催された。
 
その後、ハワイに帰り、{{和暦|1983}}12月15日没、[[享年]]79歳。奇しくも、ちょうど20年目の力道山の命日であった。
 
== エピソード ==