「桑原敬一 (政治家)」の版間の差分

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1973年福岡県[[副知事]]に就任、労働省大臣官房長、[[労働基準局]]長、[[労政局]]長などを経て、1979年に[[労働事務次官]]に就任する。その後、1981年[[中央職業能力開発協会]]理事長を経て、1985年[[福岡市]][[助役]]となり、翌1986年の[[福岡市長]]選挙に当選。以後連続3期12年を務める。
 
福岡市長時代には、古来より交流の深いアジアにいち早く目を向け、「海に開かれたアジアの交流拠点都市づくり」という理念のもと、国際都市としてのまちづくりを積極的に推進し、1989年には[[アジア太平洋博覧会]]を成功させ、[[福岡アジア文化賞]]の創設、アジア太平洋センター(現・[[福岡アジア都市研究所]])、[[福岡アジア美術館]]の設立、[[福岡アジア映画祭]]の開催など、アジアの文化を世界の中できちんと評価する事業を行なった。[[1993年]]には[[全国市長会]]会長にも選任された。
 
また、1989年には[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]を招聘し、10年ぶりに福岡の地にプロ野球チームを復活させ、現在の福岡での野球人気に影響を与えた。その他、1994[[1995]]にはプロサッカーチームである[[アビスパ福岡|福岡ブルックス]]を招聘、また1996、同年には[[ユニバーシアード]]福岡大会を開催するなど、スポーツ文化にも貢献した市長として知られる。
 
市長辞任後は、1999年[[福岡市博物館]]館長に就任する。
2004年1月9日、すい臓がんのため福岡市博多区の病院で死去。2月27日[[九電記念体育館]]において市民葬が営まれた。

前市長の[[進藤一馬]]とともに、市民に愛された市長として知られる。