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[[五代十国時代]]の[[後晋]]によって遼に割譲された[[燕雲十六州]]はその後、[[後周]]によって三州が中国側に奪い返され、遼側・中国側共に奪い返すべき土地として認識されていた。北宋が開かれた後に[[太宗 (宋)|太宗]]によって奪回作戦が試みられたが、これは失敗に終わる。その後、北宋では文治政策が進められ、この問題は一時置かれる。遼の方では[[耶律堯骨|太宗]]の死後は内紛が続き、南に干渉できる状態ではなかった。
 
[[971982年]]、遼で[[聖宗 (遼)|聖宗]]が即位する。内紛を収めた聖宗は[[1004年]]、20万の軍を率いて南下を始めた。
 
==澶淵之盟==