「永田貞雄」の版間の差分

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[[1914年]]、天中軒雲衛の芸名をもらい、前座で活躍するも上顎蓄膿症と扁桃腺を患う。手術後に高音が出なくなり浪曲をあきらめ佐賀県[[岸岳炭鉱]]の坑夫となる。10ヶ月坑夫をやったが浪曲をあきらめきれず天中軒雲月の兄弟分である三代目[[鼈甲斎虎丸]]の弟子になる。1年で辞め、東京の下谷西町にある浪曲事務所[[大谷興行部]]に入る。
 
[[1922年]]、独立し一人で浪曲興行を行うようになる。虎丸の弟子の鼈甲斎小虎丸の興行を成功させる。続いて[[広沢虎造 (2代目)|二代目[[広沢虎造]]、天中軒女月(女雲月)、初代[[木村友衛]]の興行を成功させる。
 
大谷興行部にいた一番若い女浪曲師藤原朝子(本名・伊丹とめ)と結婚。永田は朝子を大成させるため徹底的にしごきあげ、初代[[天中軒雲月]]に弟子入りさせ[[天中軒雲月嬢]](うんげつじょう)の名をつけてもらう。雲月嬢の全国的な売り出しに成功し、[[1929年]]には[[ハワイ]]興行も成功させる。