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'''重仁親王'''(しげひとしんのう、[[保延]]6年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]([[1140年]])9[[10月214日]]) - [[応保]]2年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]([[1162年]][[2月13日]]))は、[[平安時代]]後期の[[皇族]]。[[崇徳天皇]]の第一皇子。乳母は[[池禅尼]]。
親王の誕生前年、父である崇徳天皇は[[院政]]を行う[[鳥羽上皇]]の強い意向によって異母弟・[[体仁親王]](後の[[近衛天皇]])を[[皇太弟]]に立てることを強要されるた。そこで親王が生まれるとすぐに皇太弟の生母である[[藤原得子]]([[美福門院]])の[[養子]]に迎えられた。翌[[1141年]]、崇徳天皇に代わって近衛天皇が即位した[[永治]]元年に([[1141年]])12月、親王宣下を受ける。[[天養]]元年([[1144年]])、[[着袴]]。[[久安]]6年([[1150年]])12月、[[元服]]すして三品に叙される。美福門院は重仁親王を我が子の様にかわいがっており、一説には次の皇太子に最も近い地位にいたとされている。
ところが、[[久寿]]2年([[1155年]])に近衛天皇が崩御すると、父の崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが、宮廷には崇徳上皇が[[藤原頼長]]と結んで近衛天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに激怒した鳥羽法皇は重仁親王ではなく、上皇の弟であるの雅仁親王を即位させてしまう([[後白河天皇]])。崇徳上皇がこれに強い恨みを持っ抱いたことが[[保元の乱]]の原因となる。
乱後、崇徳上皇は[[讃岐国]]に[[流罪に]]となり、重仁親王は[[仁和寺]]に入り出家した。[[寛暁]]大僧正のもとで仏道に励んだが、応保2年([[1162年]])に足の病により死去した。[[享年]]23。
== 系図 ==
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