「石黒敦彦」の版間の差分

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[[1952年]]、[[東京都]]に生まれる。1977年、[[明治学院大学]][[文学部]]を卒業<ref name="むさ" />後、出版社勤務を経て、1986年、「“来るべき芸術”のためのワークショップ」を設立する<ref name="たま">[[多摩美術大学]]公式サイト内の「[http://faculty.tamabi.ac.jp/html/ja/100000184.html 多摩美術大学教員業績公開システム - 石黒敦彦]」の記述を参照。</ref>。1987年9月、東京・[[神田神保町]]の[[美学校|美學校]]に「芸術科学実験工房」を設立、講師をつとめる( - 1993年4月)<ref name="たま" />。
 
[[1980年代]]末からの「エクスプロラトリアム展」(ワークショップ部門、1989年6月 - 10月、[[科学技術館]])、1991年にはじまり現在までつづく「メビウスの卵展」(O美術館、せんだいメディアテーク、金沢21世紀美術館など)をはじめ、50件を超える多数の美術展・美術館の[[キュレーター|キュレーション]]を手がける<ref name="たま" />。
 
2006年2月、世界で初めての[[ナム・ジュン・パイク]]追悼イヴェントとなった、[[東京都現代美術館]]での「ナム・ジュン・パイク追悼・東京ミーティング “Tokyo Requiem”」実行委員会事務局となってよびかけ、[[靉嘔]]([[:en:Ay-O]])、[[赤瀬川原平]]、[[阿部修也]]、[[坂根厳夫]]、岡部徳三([[岡部版画工房]])、[[坂本龍一]]、[[木村立哉]]らとともに実行委員をつとめた<ref>「[http://blog.goo.ne.jp/eriotomo/e/e9e4cc0ef855c0b05a24f58de97bab58 【募集中】ナム・ジュン・パイク追悼「トウキョウ・レクイエム」 2006-02-21]」の記述を参照。</ref>。また、同年、木村(葛飾ホックニー)の主宰する芸術運動「[[Picture Yourself Sound School]]」に参加、もっぱら[[DJ]]として活躍する<ref>「[[Picture Yourself Sound School]]」の項目を参照。</ref>。
 
また、2006年には[[グレーター・トウキョウ・フェスティバル]]公式サイト内で、「東京おもしろミュージアムガイド」を監修した([[#外部リンク]])。
 
== ビブリオグラフィ ==