「バルフルール岬とラ・オーグの海戦」の版間の差分

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トゥールヴィルが英仏海峡に入ったとき、彼の手元には37隻の戦列艦と7隻の火船、加えて数隻の[[フリゲート]]があった。加えてユリウス暦5月15日にはロシュフォール戦隊が合流し、戦列艦44隻、その他艦艇も加えて70隻から80隻ほどになる。
 
一方、英蘭連合は[[ワイト島]]の[[セント・ヘレンズ泊地]]に集結していた。ラルフ・デラヴァル提督はユリウス暦5月8日にワイト島に到着し、翌日には海峡の西側で船団護衛と[[ガーンジー島]]への兵員輸送を行っていたリチャード・カーター提督が加わった。オランダは4月にフィリップ・ファン・アルモンデ提督の艦隊を派遣し、当時は南下を続けていた。
ジョン・アシュビー提督はユリウス暦4月27日にノール泊地を出航した。エドワード・ラッセル提督の出発は29日まで遅れたが、ガル海峡の危険な航路を通って時間を稼いだ。
ラッセルはダウンズでアルモンデの艦隊と、ダンジェネスで別のオランダ戦隊と合流した。セント・ヘレンズに到着したのは5月の第2週で、それから数日間に更なる増援も到着し、14日には戦列艦80隻以上の艦隊となっていた。このため英蘭艦隊が分散しているうちにフランス艦隊を集中するという戦略は交戦の前に失敗していた。