「カール・フィリップ (セーデルマンランド公)」の版間の差分

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'''セーデルマンランド公カール・フィリップ'''(Karl Filip, hertig av Södermanland, [[1601年]] - [[1622年]])は、[[動乱時代]]の[[ロシア帝国|ロシア]]の[[ツァーリ]]僭称者。[[スウェーデン|スウェーデン王]][[カール9世 (スウェーデン王)|カール9世]]と、その2番目の妻[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|ホルシュタイン=ゴットルプ]]公女[[クリスティーネ・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ|クリスティーナ]]との間の2番目の王子。[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の弟
 
== 生涯 ==
17世紀始め、ロシア([[モスクワ大公国]])では[[リューリク朝]]が断絶し、[[ツァーリ]]の座をめぐる争いが起きて、各地にツァーリ僭称者が現れた。この動乱時代に入ったロシアに、[[ポーランド]]や[[スウェーデン]]など近隣諸国は次々と干渉した。カール9世は1610年秋に侵攻しロシア北西部を占領、1611年7月に[[ノヴゴロド]]を陥落させた。間もなく、ノヴゴロド市民は王の下の息子カール・フィリップをツァーリに選出した。カール9世が同年10月に死去すると、兄[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]が王位を継いだ。一方ロシアは、1613年に[[ミハイル・ロマノフ]]をツァーリに選んで彼の下でまとまり、諸外国への反撃を開始した。グスタフ・アドルフはこれに苦戦し、1617年[[イングランド]]の調停で停戦条約を結んだ。グスタフ・アドルフは領土獲得と引き換えにミハイルをツァーリとして承認したため、弟カール・フィリップはツァーリを名乗る資格を失った。カール・フィリップは軍人となり、1622年[[スウェーデン・ポーランド戦争]]の最中に、[[エストニア]]の[[ナルヴァ]]で病死した。
 
カール・フィリップは父の領有するセーデルマンランド公領(スウェーデン南西部、主都は[[ニシェーピング]])とその公爵位を相続した。ただし、公領は彼が成年に達するまで母后クリスティーナによって管理された。彼の死によってセーデルマンランド公領は消滅し、177721772年[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]はセーデルマンランド公爵の[[爵位]]を復活させたが、それは単なる名誉称号だった。カール・フィリップはエリーザベト・リビングと秘密結婚し、娘を一人もうけた。