「呂秀蓮」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
蕭万長リンク修正 呂の読みについては呂明賜とちがい定まった慣用がないためなるべく併記
m 投票行動
27行目:
[[2000年]]3月に行われた[[2000年中華民国総統選挙|第10代総統・副総統選挙]]では、[[民主進歩党]]総統候補である陳水扁と組み、副総統候補として出馬、[[中国国民党]]の[[連戦]]・[[蕭万長]]、[[親民党]]の[[宋楚瑜]]・[[張昭雄]]らと激しい選挙戦を展開の末、500万票近くを獲得して当選、台湾に史上初の政権交代をもたらすとともに、自らも史上初の女性副総統に就任した。
 
[[2004年]]3月の[[2004年中華民国総統選挙|第11代総統・副総統選挙]]では再び陳水扁と組んで出馬、連戦・宋楚瑜の野党コンビを相手に終盤近くまで苦戦が伝えられていたものの、投票直前の[[3月19日]]に[[台南市]]で遊説中に発生した狙撃事件による負傷が同情票獲得につながった<ref>この点について、台湾民衆の個人ごとの支持政党は比較的はっきりしており、日本のような浮動票が極めて少ないこと、狙撃事件前後の世論調査から狙撃事件が人々の[[投票行動]]に与えた影響は読み取れないことなどの理由を基に、狙撃事件と陳水扁・呂秀蓮コンビの勝利とは無関係であるとする見解もある(酒井亨著『台湾海峡から見たニッポン』小学館(文庫)参照)。</ref>こともあり、最終的には連戦・宋楚瑜コンビに3万票あまりの票差で辛勝、同年[[5月20日]]第11代副総統に就任した。
 
公の場で「二つの中国」を公然と主張してはばからず、また「[[一つの中国]]が[[中華人民共和国]]のことを指すなら、台湾人は当然中国人ではない」といった趣旨の発言をするなど、その歯に衣をきせぬ物言いがしばしば中国を刺激し、時に台湾でも物議をかもすことでもよく知られており、李登輝、陳水扁らと並び、中国から[[台湾独立派]]の急先鋒として激しい非難を浴びている。