「引田天功 (初代)」の版間の差分

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元日は一日、元旦は数分。
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彼の死後、プリンセス・テンコーで知られる[[引田天功 (2代目)|二代目・引田天功]]が襲名した。
 
脱出イリュージョンで日本のマジック界をリードする存在であったが、中年期より心筋梗塞など重度の心臓疾患に苦しみこれが早世につながった(「引田天功は脱出マジックに失敗して命を落とした」「煙を吸い込んで、肺を痛めたのが早世につながった」という[[都市伝説]]もあるがあくまで都市伝説の域を出ないし、公式の死因発表はあくまで心臓病死である)。晩年は[[催眠術]]にも取り組むなど体に負担をかけずかつ新鮮な芸にも挑戦しながら[[ナイアガラ瀑布]]脱出など、新たな脱出イリュージョンを構想していたともいわれたが自身の病状の進行等の諸事情から果たせず、[[1979年]][[大晦日]]志半ばともいえる病没を遂げた。その凶報は出演予定であった翌日-[[1980年]]早朝の[[フジテレビ]]の[[元]]特別番組(この番組内で引田の脱出イリュージョンが生放送で行われることになっていた)で番組司会を担当していた[[三波伸介]]によってお茶の間にも伝えられた。
 
また大変な凝り性かつ浪費家であったが故に生前より多額の借金を抱えていた。二度の結婚がいずれも破局(このうち初妻は[[小桜京子]])に終わったこと、事務所の後輩だった若手タレント'''朝風 まり'''が初代の死後二代目天功の襲名にいたったのも莫大な借金に因るのでないかという説が、現在も根強い。