削除された内容 追加された内容
Joyhyjp (会話 | 投稿記録)
Ray go (会話 | 投稿記録)
定義の書き換え
1行目:
{{統合文字|[[灘]]}}
'''響灘''' (ひびきなだ)は、[[日本関門]]の西端、おおよそに広がる[[島根県]]西部の[[日本]]であり、北東沿岸、特に[[浜田港]]付近から、[[関門日本]]付近を通り[[福岡県]]北部の沿岸、特西側[[宗像市玄界灘]]'''大島'''([[筑前大島]]) 付近までの海域をさが隣接名称→[[灘]]
 
==定義==
現代の日本における一般的な定義では[[山口県]][[長門市]]の川尻岬から関門海峡西口を経て[[福岡県]][[宗像市]]の鐘ノ岬、地島、[[大島 (福岡県)|大島]]に至る海域を指し、[[東シナ海]]の一部とされている<ref>角川日本地名大辞典編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 35 山口県』 角川書店、1988年、ISBN 4-04-001350-6</ref>。
=====響灘と玄界灘=====
「響灘」は" ひぢきの灘 " が長い年月を経て〝 ひびき(響)灘〝 にかわったものである。
「昨日こそ  船出はせしか  鯨魚とり ひぢきの灘を  今日みつるかも」(万葉集 巻十七 読人知らず) 「周防灘」も同じく山口県南から大分佐賀関、佐田岬あたりを指し簡単に言うと山口県(毛利水軍)の最大勢力圏を周防灘と呼んでいる。基本的に山口県下関を中心に考えた海の名前である。
 古代ではこのあたりはひじき (海藻の一、食用)、わかめなどの海産物が多くとれ、平城京( 奈良の都 ) へ献上した記録が残っている。 鯨魚(勇魚:いさな)とりは、今日でいう捕鯨を意味するものと思われる。 近年明治時代まで近くの長門青海島でさかんに捕鯨が行われていた。響灘に面する下関も捕鯨の基地として昭和の時代まで栄えた " 大洋漁業 " 発祥の地でもある。
「玄界灘」の初出は江戸時代の辞書『書言字考節用集』(槇島昭武著1717年(享保2年)以前初版)。九州の北限の海を漠然と指す。日本海の一部で、大韓民国や日本の島根県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県に面しており、広さは不確かだが約1万3千平方キロメートルである。韓国では「玄海灘」(ヒョンヘタン)と呼ぶ。何となく九州側から見た海を[[玄海灘]]という言葉を当て、中国地方毛利藩側から見た海を響灘と言う。後に、行政区分上名称に区切りをつけたため混同されるが、重なる領域があるのはこの理由からである。
 
== 沿岸部 ==
6 ⟶ 14行目:
 
沿岸部の気候は温暖であるが、冬は[[対馬海流]]の影響で雲が発生しやすいため、曇天の日が多く、雨や雪を降らせることもある。[[日照時間]]も非常に短く、北西の[[季節風]]の影響で肌寒く、波は穏やかで荒れる事は少ない[[瀬戸内海]]側とは違い、季節風の影響を強く受けるため、海が荒れる事も少なくない。
 
==響灘と玄界灘==
「響灘」は" ひぢきの灘 " が長い年月を経て〝 ひびき(響)灘〝 にかわったものである。
「昨日こそ  船出はせしか  鯨魚とり ひぢきの灘を  今日みつるかも」(万葉集 巻十七 読人知らず) 「周防灘」も同じく山口県南から大分佐賀関、佐田岬あたりを指し簡単に言うと山口県(毛利水軍)の最大勢力圏を周防灘と呼んでいる。基本的に山口県下関を中心に考えた海の名前である。
 古代ではこのあたりはひじき (海藻の一、食用)、わかめなどの海産物が多くとれ、平城京( 奈良の都 ) へ献上した記録が残っている。 鯨魚(勇魚:いさな)とりは、今日でいう捕鯨を意味するものと思われる。 近年明治時代まで近くの長門青海島でさかんに捕鯨が行われていた。響灘に面する下関も捕鯨の基地として昭和の時代まで栄えた " 大洋漁業 " 発祥の地でもある。
「玄界灘」の初出は江戸時代の辞書『書言字考節用集』(槇島昭武著1717年(享保2年)以前初版)。九州の北限の海を漠然と指す。日本海の一部で、大韓民国や日本の島根県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県に面しており、広さは不確かだが約1万3千平方キロメートルである。韓国では「玄海灘」(ヒョンヘタン)と呼ぶ。何となく九州側から見た海を[[玄海灘]]という言葉を当て、中国地方毛利藩側から見た海を響灘と言う。後に、行政区分上名称に区切りをつけたため混同されるが、重なる領域があるのはこの理由からである。
 
==響灘に位置する主な島々==
44 ⟶ 46行目:
*[[日本海]]
 
==脚注==
<references/>
 
[[Category:日本の海域|ひひきなた]]