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高杉 小忠太(たかすぎ こちゅうた)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。高杉晋作の父である。
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時代 | 江戸時代末期(幕末)から明治時代 |
生誕 | 文化11年10月13日(1814年11月24日) |
死没 | 明治24年(1891年)1月13日 |
別名 | 小左衛門・丹治・小忠太・弥四郎(通称)。正方・春樹(名) |
墓所 | 東京都港区白金台の瑞聖寺 |
官位 | 贈正五位 |
氏族 | 高杉氏→武藤氏→高杉氏 |
父母 | 父:高杉春豊、養父:武藤又左衛門 |
子 | 高杉晋作、武、光、栄(高杉春棋正室) 養子:高杉春棋 |
文化11年(1814年)10月13日、長州藩士で200石取りの高杉春豊の次男として萩で生まれる。次男だったため、はじめ長州藩士・武藤又左衛門の養子となり弥四郎正方と名乗るが、実家の継嗣が絶えたために旧姓に復して家督を継いだ。
天保5年(1834年)から藩主・毛利斉元の小姓として仕える。天保7年(1836年)に毛利斉広が藩主になると近侍となり、天保8年(1837年)に毛利敬親が藩主になると小納戸役に任じられた。嘉永4年(1851年)には敬親の養子・毛利元徳の奥番頭に任じられる。
文久2年(1862年)には上洛し、直目付・学習館御用掛に任じられて長州藩と朝廷・幕府の交渉役を務めた。文久3年(1863年)1月に帰国すると9月には直目付を辞職し、子の晋作に家督を譲っている。元治元年(1864年)8月に第1次長州征伐が始まると、その余波を受けて失脚を余儀なくされた。
慶応2年(1866年)に直目付として復帰し、明治2年(1869年)6月には大監察となって藩政を掌握した。明治3年(1870年)には権大参事となる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で政界から退隠し、以後は主家である毛利氏の歴史編纂事業に務めた。
ちなみに長男の晋作は慶応3年(1867年)に早世していた上に谷氏という分家を興していたため、高杉家は明治9年(1876年)に娘婿の高杉春棋に譲っている。
明治24年(1891年)1月13日、東京で死去。享年78。
明治44年(1911年)に正五位を追贈された。