「中村富十郎 (4代目)」の版間の差分

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[[坂東彦十郎 (2代目)|二代目坂東彦十郎]]の三男として東京に生まれる。[[1911年]](明治44年)名古屋末広座において『[[義経千本桜]]・すし屋』六代君役に本名で初舞台。[[1912年]](大正元年)坂東亀の子と改名。[[1919年]](大正8年)6月坂東一鶴。[[1930年]](昭和5年)東京劇場において三代目[[阪東鶴之助]]を襲名。四代目[[片岡我當]](のち[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目仁左衛門]])らとともに新宿第一劇場の青年歌舞伎を結成。さらに関西歌舞伎に移り[[1943年]](昭和18年)正月大阪歌舞伎座で四代目[[中村富十郎]]を襲名するが、興行側の意向とは言え、東京生まれの役者が大阪所縁の富十郎の大名跡を継ぐ事には物議をかもし、[[中村梅玉 (3代目)|三代目中村梅玉]]が「鶴之助はんが富十郎襲名しはんのやったら、わてはどんな名継いだらよろしのや。」と憤慨したという。
 
戦後の関西歌舞伎では、立女形として[[市川寿海 (3代目)|三代目市川寿海]]、[[坂東寿三郎 (3代目)|三代目坂東寿三郎]]らと共演。矢車座を結成し新作の上演をおこなうなど活躍したが、関西歌舞伎の低迷の中で思うように活躍できぬまま、惜しくも、巡業先の[[広島県]][[福山市]]で急死した。
 
ねばっこい近代的な芸風で『心中宵庚申』のお千代。『箕輪の心中』の綾衣、『少将滋幹の母』の北の方、『[[番町皿屋敷]]』のお菊などが当り役。