「殿 (軍事用語)」の版間の差分

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'''殿'''(しんがり)とは[[後退]]する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊を指す。'''後備え'''(あとぞなえ)、'''殿軍'''(でんぐん)ともいう。
 
本隊の[[後退行動]]の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な状況において、殿は敵の[[追撃]]を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である。そのため本隊からの戦闘加入を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない最も危険な部隊任務であった。このため古来より武芸、人格に優れた[[武将]]が務める大役とされてきた。
 
有名な例では、[[1570年]]に[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]]を攻めた[[織田信長]]が義弟である[[近江国|近江]]の[[浅井長政]]の離反によって敵中に孤立した際に、[[豊臣秀吉|木下藤吉郎]](後の[[豊臣秀吉]])が殿を引き受けて信長を逃がし、自らは奮戦の末に命からがら戦場を脱出した件が良く知られている。これはこれまで[[織田氏|織田家中]]で知恵者としては知られていても武勇の士とは見なされていなかった藤吉郎の家中での評価を変え、織田家の重臣としての地位を築くきっかけとなったといわれる。
しかし、最近の資料調査によると金ヶ崎では[[池田勝正]]が殿軍を率い朝倉軍の追撃を撃退し、[[豊臣秀吉|木下藤吉郎]]は殿軍の一部将として功をあげ織田信長から褒美を頂戴していることがわかっている。
 
織田武将を表現した、「[[木綿]]藤吉(秀吉)、[[米]]五郎左([[丹羽長秀]])、掛かれ[[柴田勝家|柴田]](勝家)に退き佐久間(信盛)」という言葉があり、[[佐久間信盛]]は殿を巧くこなせる人物であったという。