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== 経歴 ==
[[神奈川県立横浜翠嵐高等学校|横浜二中]]、[[府立高等学校 (旧制) |旧制府立高校]]を経て、[[昭和]]20年([[1945年]])、[[東京大学|東京帝国大学]]に入り、在学中に[[学徒出陣]]し、特攻隊員(特別操縦見習士官)を志願する。敗戦後、復学し昭和23年([[1948年]])、同大法学部政治学科を卒業。[[八雲書店]]に入社し、編集者として『[[中野重治|中野重治国会演説集]]』などを手がけるが、昭和24年に人員整理で退職。[[自由国民社]]編集者、[[産経新聞]]記者(経済担当)等を経て、その間、昭和27年([[1952年]])から[[大宅壮一]]の助手としてに2年間師事。昭和31年([[1956年]])『[[週刊新潮]]』創刊に加わり、当初はリライターとしての起用だったが、次第に特集記事をまかされるようになり、記者の取材結果を草柳が[[アンカー]]として記事にするという分業体制も生まれた。昭和33年([[1958年]])『[[女性自身]]』の創刊に参画。同年から[[フリーランサー]]となり、週刊誌の草創期に自らアンカーとなった取材・執筆の「草柳グループ」を率いた。
 
昭和37年([[1962年]])、『芸術生活』に「山河に芸術ありて」を連載し、初めて評論家として署名で仕事を始める、人物、芸術、世相などの評論活動を行う。昭和41年([[1966年]])、『文藝春秋』に連載した「現代王国論」で文藝春秋読者賞を受賞。一貫して、いまある日本はいかにして形づくられたのか、という問いを維持しつづけてきた。昭和59年([[1984年]])に[[日本放送協会|NHK]]放送文化賞を獲得、内外調査会理事、NHK経営委員、[[静岡県]]人づくり百年の計委員会の会長等を歴任。